川中島古戦場:三太刀七太刀之跡:川中島古戦場八幡社
川中島古戦場史跡公園
川中島古戦場八幡社は公園内にあります。
古戦場から東側の千曲川(ちくまがわ)方面です。
公園内にはいくつも小高い山があり、“島”と呼ばれる名残りが感じられます。
今はたくさんの親子がピクニックを楽しんでいました。
川中島の戦い
上信越自動車道松代PAには『川中島合戦要図』がありました。
八幡社境内には第四次合戦の布陣図がありました。
武田軍の軍師山本勘助による『啄木鳥(きつつき)戦法』でも有名です。
『毘』と『龍』の旗
境内にある『毘』と『龍』の旗は上杉軍の軍旗で、
『毘』は謙信が信仰した毘沙門天を意味します。
毘沙門天の加護のもと、上杉軍は勇猛邁進し、水火を辞さない勇気を示したといわれます。
『龍』の旗は乱れ龍を意味し、突撃の時に真っ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」です。
『風林火山』の旗
左側にある武田軍の軍旗である『風林火山』の旗は、「孫子」の旗とも呼ばれています。
三太刀七太刀(みたちななたち)之跡と一騎打ちの像
永禄四年(1561年)の川中島の戦いでの武田信玄と上杉謙信との戦いにおいて、
乱戦で武田本陣が手薄になったのを見た上杉謙信が、
旗本数騎を連れて、武田信玄の本陣を急襲し、信玄目がけて三度にわたり斬りつけました。
武田信玄は上杉謙信の太刀を軍配団扇で受け止めましたが、
軍配には七ヶ所の傷が残っていたと伝えられ、
一騎討ちの跡を世に『三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと)』といいます。
境内には川中島の戦いのおける、武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像があります。
一騎討ちの像は、昭和四十四年(1969年)十一月に建立されました。
大河ドラマ『天と地と』の放送記念として建てられました。
執念の石
上杉謙信が武田信玄目がけて斬りつけた際、
武田軍の中間頭である原大隅(はらおおすみ)が傍らにあった信玄の持槍の長柄を取って、
馬上の謙信に数度突き出しましたが、馬が驚き跳ね上がって去っていきました。
謙信を取り逃がし、無念の原大隅は、傍らにあった石を槍で突き通したといわれます。
由緒
平安時代中期(1087年~1093年)に源顕清(みなもとあききよ)が信濃に流された折、
この地を訪れ、武運長久を祈り、八幡大神を祀ったことがはじまりとされています。
この辺りの地名は『八幡原(はちまんぱら)』と名付けられました。
永禄四年(1561年)の川中島の戦いでは、八幡大神を崇敬する武田信玄が陣を構えました。
その後武田信玄は破壊された社殿を、高坂弾正に命じて再建させました。
江戸時代には松代藩真田家が、明治維新まで代々祭祀や修繕管理を行ってきました。
昭和二十五年に旧本殿より現在の社殿に遷されました。
社殿
境内には川中島の戦いの痕跡が多く残されています。
逆槐(さかさえんじゅ)
武田信玄は、川中島の戦いの際、八幡原に、土塁を積みかさね、矢来を組み、
盾をめぐらして本陣を構えました。
この時土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが、
芽を出し、巨木に成長したものと伝えられます。
周囲に低い土塁の跡があるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡だそうです。
旧八幡社
首塚(くびづか)
以前は屍(かばね)塚と呼ばれ、武田方の海津城主高坂弾正が、
この辺り一帯の戦死者(六千余人)の遺体を手厚く葬った塚の一つです。
これを知った上杉謙信は大変感激し、
後に塩不足に悩む武田氏に塩を送り、恩に報いたといわれています。
このことから「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれています。
安在所(あんざいしょ)
明治三十五年に皇太子嘉仁(よしひと)親王殿下(後の大正天皇)が行啓され、
その後も史蹟見学者が多数訪れ、
湯茶接待を行う為の休憩所(二間半四方丸木掘立板葺)として使用された建物跡です。
川中島合戦をしのぶ田中月亀(げっき)父子の歌碑があります。
田中月亀は松代藩主真田幸教に仕え、学問に熱心で、歌道に長じました。
息子の亀作も風雅の道で知られていました。
川中島古戦場八幡社のご朱印
平成二十一年拝受:ご朱印
令和五年拝受:三色紋入り・ご朱印
令和五年拝受:秋限定(10月7日~31日)・ご朱印
ご朱印一覧
川中島古戦場八幡社・御朱印帳
表紙には川中島の戦いの一騎打ちが、裏表紙には龍と虎が描かれています。
御朱印帳と切り絵ご朱印案内
神社情報
- 住所:長野県長野市小島田町1362-1
- アクセス:バスの場合:JR長野駅下車アルピコ交通バス古戦場経由松代行き乗車
「川中島古戦場」バス停下車すぐ・車の場合:長野インターより約5分 - HP:https://www.kawanakajimakosennjouhatimannsha.com/
ご覧頂きましてありがとうございます。
天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、
武田信玄と上杉謙信によって四度に渡って繰り広げられた戦いです。
甲斐の武田信玄が信濃国に侵攻したことにより、
信濃の豪族から助けを求められた越後の上杉謙信との間で、
北信濃の覇権を巡る戦いとなりました。