神奈川県伊勢原市:太田道灌墓所:洞昌院のご朱印

洞昌院(とうしょういん)

太田道灌(おおたどうかん)

太田道灌

永享四年(1432年)鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である、
扇谷上杉家家宰を務めた太田資清の子として生まれました。
扇谷上杉家二代に渡って補佐しました。
古河公方との争いでは、房総の千葉氏を抑える為、江戸城築城し、
城主として主家扇谷上杉家支え、その活躍により威望も絶大なものになりました。
しかしそんな道灌を主家や家臣快く思わず
文明十八年(1486年)当主上杉定正糟屋館に招かれた道灌は暗殺されました。
享年五十五でした。

死に際『当方滅亡』言い残し
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いと予言しましたが、
その通りに扇谷上杉家衰退していきました。

由緒

久安元年(1145年)藤原氏の一族である糟屋盛季によって創建されたといわれています。
糟屋氏の勢力衰亡の後、関東管領上杉家の館が糟屋上村におかれるようになると、
上杉家の執事太田道灌洞昌院再興し、上杉家の祈願寺としました。

太田道灌の死後関東管領上杉家没落とともに廃寺同然となりましたが、
その後徳川家により広大な寺域が与えられ、復興しましたが、
明治維新による寺領の上地(政府に提供)や、太平洋戦争後農地解放により、
現在の寺域となりました。

山門

文明十八年(1486年)太田道灌最期の伝承の中に、洞昌院まで逃げ込んだ道灌が、
門が閉められており、中には入れず、ついに力尽きたことから、
以来山門には扉を付けてはならないという言い伝えがあります。

本堂

かつての本堂正徳二年(1712年)建立されました。
昭和三十九年改築の際、間口十一間半のものを八間半に縮小しました。
現在の本堂平成十三年(2001年)建立されました。

太田道灌公の墓

墓所の前には二株の古松の切り株(赤い屋根に覆われています)が残っていますが、
向かって右のものは大正三年折損枯死しました。年輪四百三十年まで数えられました。

墓石上杉定正が没した翌年明応三年(1494年)に、
北条早雲によって建てられたと伝えられます。
文明八年(1476年)駿河今川家内紛を、太田道灌の援助無事に治め
その功により興国寺城城主に取り立てられました。

太田道灌公霊廟

洞昌院のご朱印

令和六年拝受:ご朱印

寺院情報

  • 住所:神奈川県伊勢原市上粕屋1160
  • アクセス:小田急小田原線伊勢原駅下車、
         北口バス停より大山ケーブル行 バス「道灌塚前」バス停下車徒歩5分
  • HP:https://洞昌院.jp/

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