Contents
洞昌院(とうしょういん)
太田道灌(おおたどうかん)
死に際に『当方滅亡』と言い残し、
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いと予言しましたが、
その通りに扇谷上杉家は衰退していきました。
由緒
久安元年(1145年)に藤原氏の一族である糟屋盛季によって創建されたといわれています。
糟屋氏の勢力が衰亡の後、関東管領上杉家の館が糟屋上村におかれるようになると、
上杉家の執事の太田道灌は洞昌院を再興し、上杉家の祈願寺としました。
太田道灌の死後、関東管領上杉家の没落とともに廃寺同然となりましたが、
その後徳川家により広大な寺域が与えられ、復興しましたが、
明治維新による寺領の上地(政府に提供)や、太平洋戦争後の農地解放により、
現在の寺域となりました。
山門
文明十八年(1486年)の太田道灌の最期の伝承の中に、洞昌院まで逃げ込んだ道灌が、
門が閉められており、中には入れず、ついに力尽きたことから、
以来山門には扉を付けてはならないという言い伝えがあります。
本堂
かつての本堂は正徳二年(1712年)に建立されました。
昭和三十九年の改築の際、間口十一間半のものを八間半に縮小しました。
現在の本堂は平成十三年(2001年)に建立されました。
太田道灌公の墓
墓所の前には二株の古松の切り株(赤い屋根に覆われています)が残っていますが、
向かって右のものは大正三年に折損枯死しました。年輪は四百三十年まで数えられました。
墓石は上杉定正が没した翌年の明応三年(1494年)に、
北条早雲によって建てられたと伝えられます。
文明八年(1476年)に駿河の今川家の内紛を、太田道灌の援助で無事に治め、
その功により興国寺城の城主に取り立てられました。
太田道灌公霊廟
洞昌院のご朱印
令和六年拝受:ご朱印
寺院情報
- 住所:神奈川県伊勢原市上粕屋1160
- アクセス:小田急小田原線伊勢原駅下車、
北口バス停より大山ケーブル行 バス「道灌塚前」バス停下車徒歩5分 - HP:https://洞昌院.jp/
ご覧頂きましてありがとうございます。
永享四年(1432年)に鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である、
扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれました。
扇谷上杉家を二代に渡って補佐しました。
古河公方との争いでは、房総の千葉氏を抑える為、江戸城を築城し、
城主として主家の扇谷上杉家を支え、その活躍により威望も絶大なものになりました。
しかしそんな道灌を主家や家臣が快く思わず、
文明十八年(1486年)に当主の上杉定正の糟屋館に招かれた道灌は暗殺されました。
享年五十五でした。