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山梨懸護国神社(やまなしけんごこくじんじゃ)
武田神社から約8分程歩いた場所に、山梨懸護国神社があります。
由緒
明治十二年(1879年)に招魂社として建立されました。昭和十七年(1942年)に現在地に遷座し、
昭和十九年(1944年)に山梨懸護国神社に改称されました。
戦後の一時期『山梨宮』に改称されました。
現在山梨宮は、山梨県出身の殉職自衛官などを祀る摂社の名前になっています。
山梨宮
大鳥居
参道
二の鳥居
三の鳥居
社殿
社殿は昭和十七年(1942年)に建築されました。
神社の看板猫
境内にはかわいい看板猫がいました。
父の像
終戦五十年を記念して建立されたようです。
山梨懸護国神社のご朱印
令和六年拝受:ご朱印
神社情報
- 住所:山梨県甲府市岩窪町608
- アクセス:JR甲府駅より武田神社行きバス乗車護国神社入口バス停下車徒歩約10分
- HP:https://yamanashikengokokujinjya.wordpress.com/
山梨懸護国神社周辺
永慶寺跡
山梨懸護国神社の境内は、かつては永慶寺という寺院で、甲府藩主柳沢家の菩提寺でした。
江戸幕府五代将軍の徳川綱吉の信任厚い柳沢吉保は、小姓から異例の出世を遂げて、
宝永元年(1704年)に甲斐三郡の領主に任ぜられ、
その翌年から永慶寺の造営が始まっています。寺院は宝永七年に完成しました。
京都萬福寺の悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招聘し、創建されました。
伽藍は甲斐国第一を競う規模で、仏殿を中心に、北に方丈、東に斎堂、西に禅堂、
南に天主堂と惣門を配するなど、京都萬福寺の伽藍配置を模倣したことがわかっています。
柳沢吉保は正徳四年(1714年)に亡くなりました。
享保九年(1724年)に甲斐一国が幕府直轄領となると、柳沢氏は大和郡山に転封となり、
永慶寺も大和郡山へ移転しました。
信玄堀(岩窪溜池)
信玄堀は岩窪一帯の灌漑施設として造られた溜池で、築造時期は不明です。
ただ敷地が永慶寺の境内に含まれていることから、柳沢家が大和郡山に転封となって、
寺も破却された享保九年(1724年)以降の築造と推定されます。
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