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上田長尾氏歴代供養塔:龍言寺跡:長尾政景公墓所
龍言寺(りゅうごんじ)跡

長尾政景公墓所の敷地内には、龍言寺跡という石碑があります。
龍言寺は上杉景勝が米沢に移封された際、一緒に移転しました。
長尾政景(ながおまさかげ)

上田長尾氏の祖は、足利氏の執権上杉氏に仕え、
坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾)と称され、
相模国長尾庄(現・横浜市戸塚一帯)を本拠とした名門です。

上田庄は、三国・清水街道をもって関東と結ぶ要衝として、
関東管領上杉氏の相伝の地でした。
長尾政景公墓所(道宗塚)

道宗塚は坂戸城主長尾政景(上田長尾氏第五代)の墳墓で、
塚の名称は政景の法名に由来します。

塚の大きさは約十メートル四方、高さは約二メートルあります。

墓碑は明治十六年(1883年)に岡村貢(上越線建設の提唱者)ら有志によって再建され、
損傷が激しく、平成十八年に再々建されました。

歴代上田長尾氏墓所

上田長尾氏歴代の墓(五輪塔)が建っていました。
初祖長尾景実

長尾景実は応永年代の初め(1394年~)に、古志長尾氏から分派して、上田庄に入りました。
二代長尾房景

後に庄名を冠して上田長尾と通称され、守護上杉氏の繁栄に貢献しました。
三代長尾顕吉

守護代長尾為景は長尾顕吉の娘(天甫公清)を娶り、顕吉と同盟を結び、
守護上杉房能を追い、自刃させました(越後下剋上または永正の乱)
天甫公清はのちに仙洞院と上杉謙信を生みます。
四代長尾房長

管領上杉顕定の死によって、越後の上杉氏領は消滅し、
房長による自立の時代が到来しました。
永正九年(1512年)に坂戸城を築城し、本拠としました。
六代上杉景勝

天正三年(1575年)に上杉謙信の養子となり、
精強な上田衆を引き連れて春日山城に入城しました。
直江兼続

直江兼続は、永禄三年に樋口惣右衛門兼豊の長子として坂戸城下に生まれました。
天正九年直江家を継ぎ、直江兼続と改めました。
景勝の信頼あつく、若年にて上杉家の執政と抜擢されました。

内藤玄宗句碑

長尾政景公墓所情報
- 住所:新潟県南魚沼市坂戸117
谷川の六年水(谷川岳PA)
谷川の六年水(谷川岳PA)

関越自動車道谷川岳PAでは、関越トンネル内の地中深部から湧き出した水が出ていました。

谷川山系の雪解け水が約六年を経て浸透したもので、軟水で癖が無く、
お茶やコーヒー等に最適という事です。
ご覧頂きましてありがとうございます。
大永六年(1526年)に長尾房長の子として生まれました。
妻は上杉謙信(長尾景虎)の姉にあたる仙洞院で、上杉景勝の実父です。
天文二十年(1551年)に確執のあった上杉謙信(長尾景虎)との盟約後は、
関東征戦や、武田信玄との戦いに貢献しました。
弘治二年(1556年)に家督を捨てて出家しようとした上杉謙信(長尾景虎)を説得し、
押し止め、復権させました。
永禄七年(1564年)に野尻ヶ池(南魚沼市)で急死しました。享年三十八でした。
死因には「舟遊びで酒に酔い溺死した説」、「謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺説」
など諸説がありますが真相は不明です。