富山県高岡市:加賀前田家二代当主・前田利長築城:高岡城の御城印

高岡古城公園:国指定史跡:高岡城(たかおかじょう)

由緒

高岡城は、加賀前田家二代当主前田利長が、自らの隠居城として、
慶長十四年(1609年)築城した城です。居城である富山城焼失したため、
新たな居城として六ヶ月で築造しました。

慶長十九年(1614年)利長が没し元和元年(1615年)一国一城令廃城となりましたが、
その後も藩の米蔵や塩蔵等置かれ維持管理されていました。

曲輪築城時のままで、三分の一が水堀です。
縄張り元キリシタン大名築城の名手高山右近によるものだともいわれています。

小竹藪(おたけやぶ)

小竹藪(おたけやぶ)城跡の一番北の隅にあり、御城外と呼ばれ、
兵士の集合場所といわれています。

小竹藪(おたけやぶ)と呼ばれる場所は、駐車場もあるため、こちらで車を止めました。
小竹藪遺跡縄文時代中期から後期遺跡で、
昭和二十八年小規模の調査が実施されました。土器や石器が出土していました。

「夕日」の作曲碑

小竹藪には作曲家室崎琴月(1891年~1977年)高岡市木舟町綿糸問屋に生まれ、
生家も現存しています。市内の小中高校の校歌などを数多く手がけました。

「夕日」大正十年(1921年)に作られ、作曲碑昭和四十一年(1966年)設置されました。

中の島

中の島築城当時からのものではなく明治四十年(1907年)民有地を編入して、
あやめ池掘り造成したものです。

緑翠亭(りょくすいてい)と呼ばれる休憩所が見えます。

朝陽橋

朝陽橋は、本丸小竹藪を結ぶ内堀にかかる赤色の太鼓橋です。
明治十一年(1878年)にはじめて木橋が架けられました。

昭和四十三年(1968年)永久橋に改修されました。

本丸

本丸は城の要で、城主である前田利長本丸御殿があった可能性が高く
廃城後には米蔵、塩蔵、本丸門、番所があったとされています。

本丸広場

本丸広場には昭和二十二年(1947年)野球場が造られましたが、
昭和五十年(1975年)公園指定百周年を記念して、芝生広場に変わりました。

前田利長公像

前田利長公像は、昭和五十年(1975年)建てられました。
慶長十四年(1609年)家臣四百三十四名を従え入城した姿を表しています。

長谷川義起「国技」

本丸射水神社入口にあります。たくましい力士の姿です。

二の丸

二の丸前田利長夫人永姫(玉泉院:織田信長の娘)付け人・鈴木権之助屋敷や、
番人小屋矢来門などがあったといわれています。

石垣

本丸二の丸を結ぶ土橋の両側に見られる石垣は、築城当時からの貴重な遺構です。
石の積み方穴太衆(あのうしゅう)による「乱積み」と言われ、石の間にすき間があり、
不揃いな自然石割石巧みに積み上げています。

鍛冶丸

鍛冶丸城の正面(大手口)にある重要な曲輪です。現在高岡市立博物館があります。

明丸(あきまる)

明丸築城当時は建築物が何もなかった空き地のため、そう名付けられたと思われます。
兵士の集合場所推測され、廃城後火薬蔵がありました。

桝形堀(ますがたぼり)

鍛冶丸、明丸にかけての桝形堀最も深く5メートル~8メートルあります。

桝形堀では、カモ類、サギ類たくさんの水鳥を見ることができます。

水源庄川扇状地の地下水で、年中涸れることなく一定の水位を保ってきました。

三の丸

三の丸腰曲輪とも言われ、城の搦手口(からめてぐち)すなわち裏門を守る重要な曲輪です。

民部之井戸

三の丸今枝民部屋敷があったので、民部丸とも呼ばれています。

民部の井戸築城当時から現存する貴重な遺構で、屋形の高さ五・五メートル
井戸直径八十センチ深さは八メートルあります。

屋形の奥にある三の丸茶屋御城印を頂きました。

幻の高岡城

幻の高岡城の模型が展示されていました。

築城当時の絵図は発見されておらず、城郭の全貌は明らかではありませんが、
一国一城令が無かった場合の想像する姿のようです。

高岡城の御城印

令和四年拝受:ご城印

高岡城の御城印は二種類ありました。

高岡城情報

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