忠臣蔵(ちゅうしんぐら):泉岳寺(せんがくじ)
由緒
慶長十七年(1612年)に徳川家康が現在の桜田門の周辺の地に、
今川義元の孫にあたる門庵宗関(もんなんそうかん)を招いて創建した寺院です。
今川義元の菩提を弔う為に創建されたそうです。
寛永十八年(1641年)の寛永の大火で焼失しましたが、
江戸幕府三代将軍徳川家光の命で、現在の地に再建されました。
浅野家も復興に携わったことから、泉岳寺との縁がはじまりました。
境内には学寮(がくりょう:学問所)があり、後に吉祥寺の旃檀林(せんだんりん)学寮、
青松寺の獅子窟学寮と統合し、現在の駒澤大学に発展しました。
境内案内図
本堂(開山堂)
大正十二年(1923年)の関東大震災でにより建物や墓が倒壊しました。
昭和二十年(1945年)の東京大空襲で本堂が焼失しましたが、
昭和二十八年(1953年)に再建されました。
赤穂義士とのゆかり
元禄十四年(1701年)の三月に江戸城松の廊下での刃傷事件により、
赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が切腹した後、葬られました。
元禄十六年(1703年)には吉良邸討ち入り後、赤穂義士も葬られました。
浅野長矩の正室である瑤泉院(ようぜんいん)や長矩実弟の浅野長広(大学)、
長広の代々の子孫や大石家の墓所があります。
中門
天保七年(1836年)に再建されました。泉岳寺の入口になります。
元来泉岳寺には三門といって三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、
現在は中門と山門のみが残っています。
山門
天保三年(1832年)に再建されました。
二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には『江戸三龍』のひとつ、
銅彫大播龍がはめ込まれています。
講堂
大正十四年(1925年)に建てられました。
一階は講堂で、二階は義士木像館となっています。
大石内蔵助良雄銅像
大正十年十二月十四日に除幕されました。
当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして、
江戸の方向をじっとにらんでいる姿を表したものです。
赤穂義士墓所
門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加国際病院)の裏門で、
明治時代に移築されたそうです。
墓所は撮影禁止という事でした。
入口でお線香を買い、お墓に供えました。
首洗いの井戸
赤穂義士が吉良上野介の首を洗ったといわれる井戸です。
石柵には『川上音二郎建立』と刻まれています。
明治時代に新派劇の創始者である川上音二郎が、
義士の墓が荒れ果てているのを見て寄付をし、寺は首洗いの井戸を整備しました。
血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が田村右京太夫の屋敷の庭先で切腹した際、
その血がかかったと伝えられる梅と石です。
瑶池梅
義士の墓守をしていた堀部妙海法尼が、
瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したと伝えられています。
義商:天野屋利兵衛の碑
忠臣蔵において赤穂義士を助けた豪商として描かれた天野屋利兵衛の石碑で、
明治二年(1869年)に建立されました。
主税梅(ちからうめ)
赤穂義士のひとりで、
大石内蔵助良雄の息子である大石主税(ちから)が切腹した、
松平隠岐守の三田屋敷に植えられていた梅と伝えられています。
澤木興道老師像
二十世紀に最も活躍した禅僧の一人だそうです。
梵鐘・鐘楼
大正二年に作られた鐘です。江戸から明治まで使われていた梵鐘は、
現在ウィーンの国立民俗博物館に所蔵されています。
泉岳寺のご朱印
平成二十六年拝受:ご朱印
平成二十六年十二月十四日拝受:義士祭・ご朱印
平成二十六年義士祭
平成二十六年の義士祭の時の写真です。
義士祭の泉岳寺と吉良上野介墓所の華蔵寺の訪問の様子は以下の通りです。
令和五年拝受:御朱印帳
表面は赤穂義士が描かれ、裏面には『義』の字が書かれています。
令和五年拝受:ご朱印
ご朱印拝受時の写経
ご朱印を頂く際に写経をすることが出来ました。
写経用紙は選ぶことができました。
寺院情報
- 住所:東京都港区高輪2-11-1
- TEL:03-3441-5560
- アクセス:都営浅草線泉岳寺駅徒歩3分・JR山手線高輪ゲートウェイ駅徒歩7分
- HP:https://sengakuji.or.jp/
泉岳寺周辺
車町稲荷神社
泉岳寺交差点にあるビルの階段を登ると車町稲荷神社があります。
車町(くるまちょう)稲荷神社と呼ばれています。
1階に社務所があります。ご朱印はされていないようです。
案内表示が無いので、神社の歴史等は不明でした。
社殿からは高輪ゲートウェイ駅や周辺の再開発工事の様子を見ることができます。
高輪ゲートウェイ駅
車町稲荷神社情報
- 住所:東京都港区高輪2-15-10
- アクセス:都営浅草線泉岳寺駅徒歩1分
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