Contents
- 1 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝ゆかりの寺院:善光寺(ぜんこうじ)
- 1.0.1 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)
- 1.0.2 源頼朝ゆかりの寺院:駒返り橋
- 1.0.3 由緒
- 1.0.4 善光寺交差点
- 1.0.5 善光寺参道敷石
- 1.0.6 登録有形文化財:仁王門
- 1.0.7 仁王門:仁王像(左・阿形:右・吽形)
- 1.0.8 仁王門:三面大黒天
- 1.0.9 仁王門:三宝荒神像
- 1.0.10 仁王門再建:永田兵太郎顕彰碑
- 1.0.11 国指定重要文化財:山門(三門)
- 1.0.12 山門・鳩字(はとじ)の額
- 1.0.13 山門からの眺め
- 1.0.14 国宝:本堂
- 1.0.15 国指定重要文化財:経蔵
- 1.0.16 経蔵前・輪廻塔
- 1.0.17 善光寺日本忠霊殿
- 1.0.18 歴代の回向柱(えこうばしら)
- 1.0.19 仏足跡(仏足石)
- 1.0.20 六地蔵
- 1.0.21 鐘楼:長野冬季オリンピック開会の鐘
- 1.0.22 濡れ仏
- 1.0.23 むじな燈籠
- 2 善光寺のご朱印
- 3 寺院情報
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝ゆかりの寺院:善光寺(ぜんこうじ)
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)
源頼朝ゆかりの寺院:駒返り橋
建久八年(1197年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が善光寺に参詣した折、
馬の蹄が石橋の穴に挟まってしまい、ここからは馬を返して徒歩で入ったと言われています。
源頼朝は、文治三年(1187年)に信濃国守護の比企能員を通じて、
善光寺の再建を命じました。
由緒
善光寺の御本尊である『一光三尊阿弥陀如来』は、
欽明天皇十三年(552年)に百済から伝えられた最古の仏像といわれています。
蘇我氏と物部氏による崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏により、
難波の堀江に打ち捨てられました。
その後、信濃国国司の従者として都に上った本田善光(ほんだよしみつ)によって、
はじめ現在の長野県飯田市にお祀りされ、皇極天皇元年(642年)に現在の地に遷座されました。
皇極天皇三年(644年)には勅願として伽藍が造営され、本田善光の名を取って、
善光寺と名付けられました。
戦国時代には武田信玄は、上杉氏による戦災の保護を口実として、
善光寺如来を甲斐善光寺に移しました。
その後善光寺如来は、豊臣秀吉により方広寺の御本尊として遷されましたが、
慶長三年(1598年)に四十数年振りに信濃善光寺に戻りました。
善光寺交差点
善光寺交差点からは宿坊の並ぶ参道となります。
善光寺参道敷石
善光寺参道(敷石)は、宝永四年(1707年)に本堂が仲見世堂跡地地蔵尊付近から、
現在地へ移転竣工の後、七年目にあたる正徳四年(1714年)に完成しました。
本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀をきたしていたため、
正徳三年に本堂前の敷石が腰村の西光寺住職単求の寄進により敷設され、
境内入口の二天門跡から山門下までの218間(397メートル)が、
江戸中橋上槙町の石屋番庄(大竹屋平兵衛)の寄進により敷設されました。
登録有形文化財:仁王門
現在の仁王門は、長野県東筑摩郡山形村の永田兵太郎をはじめとする、
全国信徒の篤志により大正七年(1918年)に再建されました。
高さは約十四メートルあります。屋根は銅瓦葺です。
『定額山(じょうがくさん)』の額は、
伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)親王の御筆によるものです。
仁王門:仁王像(左・阿形:右・吽形)
仁王像は近代彫刻家として有名な高村光雲・米村雲海による作です。
仁王像は一般的な配置と逆になっています。
仁王門:三面大黒天
三面大黒天像は、大正八年(1919年)に高村光雲・米原雲海によって作られました。
俵に立つ大黒天に、毘沙門天弁財天の合体像としてあらわされました。
高さは約二メートルです。
仁王門:三宝荒神像
三宝荒神像は、高村光雲・米原雲海により大正八年(1919年)に作られました。
火伏せとして安置されています。高さは約二メートルです。
仁王門再建:永田兵太郎顕彰碑
仁王門再建の寄進をしました、長野県東筑摩郡山形村出身の永田兵太郎顕彰碑です。
令和二年(2020年)に、仁王門再建百年を記念して建立されました。
国指定重要文化財:山門(三門)
寛延三年(1750年)に完成しました。間口と高さは約二十メートルです。
上層には仏間があり、文殊菩薩像・四天王像・四国八十八カ所尊像などが安置されています。
山門・鳩字(はとじ)の額
寺額は輪王寺門跡公澄法親王(ちょうほっしんのう)の筆となります。
享和年中(1801~1804年)に賜ったものと伝えられています。
現在山門に懸けられている額は平成元年に作られた二代目で、
先代は史料館で見ることができます。
山門からの眺め
山門からみた仁王門の眺めです。
山門からみた本堂の眺めです。左奥には善光寺日本忠霊殿もあります。
山門から見た善光寺大勧進です。
国宝:本堂
善光寺は創建以来数十度の大火に遭いましたが、
そのたびに全国の信徒らによって復興されました。
現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、
昭和二十八年(1953年)に国宝に指定されています。
国指定重要文化財:経蔵
宝暦九年(1759年)に完成しました。経蔵とは経本の収蔵庫で、
中央には八角形の回転式輪蔵があり、
元禄七年(1694年)に寄進された鉄眼黄檗版一切経の経本が納められています。
輪蔵の腕木を押して一回転させると、
中の経本を全て読んだのと同じ功徳が得られるといわれています。
経蔵入口には、輪蔵を考案した傅大士(ふだいし)の像があります。
経蔵前・輪廻塔
石柱にはめ込まれている車輪状の石(輪廻車)を回すと、
諸々の苦悩を抜け出すことができると言われています。
善光寺日本忠霊殿
善光寺日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦争で亡くなった、
約二百四十万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。
明治三十九年(1906年)に創建され、昭和四十五年(1970年)に現在の姿に改築されました。
一階には善光寺ゆかりの宝物を展示する『善光寺史料館』が併設されています。
歴代の回向柱(えこうばしら)
数え年で七年に一度行われる善光寺最大の行事の前立本尊御開帳において、
本堂前に建てられる高さ十メートルの角塔婆です。
歴代の回向柱が納められています。
回向柱は前立本尊の右手と直に結ばれ、
柱に触れると前立本尊に触れるのと同じご利益があるといわれています。
仏足跡(仏足石)
お釈迦様の足跡を石に刻んだものです。
六地蔵
右側の地蔵菩薩が蓮台から片足を踏み出しているのは、
一刻も早く衆生を救いにいこうというお気持ちの顕れだと言われています。
鐘楼:長野冬季オリンピック開会の鐘
現在の鐘楼は、嘉永六年(1853年)の再建で、六本の柱をもつ珍しい形式です。
梵鐘は寛文七年(1667年)鋳造の名鐘で、毎日の時の鐘として用いられています。
平成十年の長野冬季オリンピックでは、この鐘が開会の合図となりました。
濡れ仏
享保七年(1722年)に完成した高さ約2.7メートルの延命地蔵菩薩坐像です。
法誉円信が広く施主を募って建立したものです。
江戸の大火の火元として処刑され、のちに歌舞伎や浄瑠璃の題材となった、
八百屋お七の冥福を祈り、恋人の吉三郎が造立したという伝説もあります。
むじな燈籠
下総国のむじなが、殺生しなければ生きていけない自らの罪を恥じ、
人の姿に化けて善光寺に参詣しました。
善光寺に燈籠を寄進したいと願っていたむじなの思いを不憫に思い、
むじなが宿泊していた宿坊の住職が、願いを叶えるため、燈籠を建てたといわれています。
善光寺のご朱印
平成二十一年拝受:ご朱印
令和四年拝受:ご朱印
令和四年拝受:御開帳記念・ご朱印
下は御開帳記念のご朱印が入っている封筒です。
平成二十一年拝受:御朱印帳
令和四年拝受:御朱印帳
善光寺御朱印帳内部:御本尊・一光三尊阿弥陀如来
寺院情報
- 住所:長野県長野市大字長野元善町491-イ
- アクセス:JR長野駅下車1番乗り場善光寺方面行バス乗車約15分善光寺大門バス停徒歩約5分
- HP:https://www.zenkoji.jp/
ご覧頂きましてありがとうございます。
清和源氏の嫡流である河内源氏の源義朝の三男として生まれました。
義朝が平治の乱で敗れると伊豆に流されましたが、
北条政子との婚姻を期に、平家打倒に挙兵しました。
その後鎌倉幕府初代将軍となりました。
これにより東国に独立した武家政権が開かれました。
建久九年(1198年)に相模川の橋供養の帰り、体調不良からの落馬が原因で、
五十二歳で亡くなりました。