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長純寺(ちょうじゅんじ)
住職様が不在のため、ご朱印は頂けませんでした。
長野業政(ながのなりまさ)
長野業政
由緒
戦国時代に上野国西部を支配していた箕輪城の城主の長野憲業(のりなり)の開基で、
子の長野業政の墓があります。

長野業政公墓所

本堂裏手に長野業政の墓所があります。

大きな木が目印です。

十三世実山狐真大和尚の代に建立されたと伝えられ、長野業政の戒名は、
『実相院殿一清長純大居士』です。

長野業政の墓です。

山門

本堂

鐘楼堂


石仏

お地蔵様と観音様が両脇に鎮座し、左から奪衣婆と閻魔大王の石像だそうです。
寺院情報
- 住所:群馬県高崎市箕郷町富岡852
- アクセス:JR高崎駅よりバスで約30分・関越自動車道高崎ICより車で約40分
ご覧頂きましてありがとうございます。











業正(なりまさ)とも書きます。延徳三年(1491年)に生まれました。
長野氏は上野西部の豪族で、関東管領・山内上杉氏に属する勢力で、
周囲の豪族・国人を取りまとめており、その集団は箕輪衆と呼ばれています。
天文十六年(1547年)に、信濃国志賀城主・笠原清繁のへの救援に出ようとする、
主君の上杉憲政を諫めたが聞き入れられず、長野業正が参加しなかった小田井原の戦いで、上杉憲政は武田信玄に敗れました。
このころから主君との関係は微妙であったとみられます。
天文二十年(1551年)に上杉憲政が越後に逃れた後も、
上杉家に義理を立て北条氏に従わず、
翌年に長尾景虎(後の上杉謙信)が上野に援軍として来るまで持ちこたえたといいます。
武田信玄の六次に渡る侵攻を全て撃退したといわれています。
永禄四年(1561年)に病死しますが、
『私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。
敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。
運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたものはない』
という遺言を残しました。享年七十一とも六十三ともいわれています。