東京の白蛇さま:蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)
由緒
文永八年(1271年)に、
鎌倉幕府二代執権の北条義時の三男である北条重時の五男の時千代が仏門に入り、
法圓上人と称し厳正寺(ごんしょうじ)を開き、その家臣は蛇窪に住み着きました。
元享二年(1322年)に武蔵国一帯が大旱魃(かんばつ)となり、
厳正寺の当主、法圓上人の甥の法密上人が池の龍神に雨乞いの祈願をしたところ、
慈雨に恵まれたため、感激した法圓上人の旧家臣たちは神社を勧請しました。
これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。
当時は神明社と称していましたが、村社に昇格した際、天祖神社に改名されました。
令和元年(2019年)に別称として使用していた蛇窪神社を通称表記としました。
新檜の大鳥居
鎮座七百年を記念し、令和元年12月26日に建立されました。
社殿
太平洋戦争の空襲で焼失しましたが、昭和三十六年(1961年)に再建されました。
手水舎
底はビー玉が敷き詰められ、花や水晶が浮かぶきれいな手水舎です。
白蛇:縁起
鎌倉時代には社殿の左横に清水が湧き出る洗い場があり、白蛇が住んでいました。
その後洗い場が無くなり、白蛇は現在の戸越公園の地に移り住むようになりました。
あるとき土地の旧家である森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ、
「一日も早くもとの住みかに返してほしい」と懇願し、
宮司に相談したところ、弁財天社を建立することに決めました。
昭和二十九年に弁財天のお社は現在地に移され、上屋や弁天池なども造営されました。
令和三年に鎮座七百年を記念し、建て替えられました。
白蛇弁財天境内には白蛇の「みーくん」「しーちゃん」が巳の日等に展示されています。
平成二十六年参拝時:荏原七福神・弁財天
白蛇弁財天
社殿横の鳥居を潜ると白蛇弁財天があります。
令和三年に鎮座七百年を記念し、社殿や弁天池、白龍の滝が建て替えられました。
撫で白蛇
蛇窪龍神社(元宮)
令和三年に鎮座七百年を記念し、元宮として建立されました。
特徴的な全長八メートルの白龍や、七匹の白蛇は、
昭和五十年に真鍋勝氏の手造りにより奉納されました。
法密稲荷社
元享二年の大旱魃の後、豊作を祈る為、京都伏見稲荷大社の御分霊が勧請されました。
鎮座七百年を記念し、雨乞いが行われてから七百年目の令和四年に建て替えられました。
その際稲荷社の由緒を後世に伝える為、法密稲荷社に改名されました。
平成二十六年拝受:上神明天祖神社のご朱印
平成二十六年拝受:上神明天祖神社:ご朱印
平成二十六年拝受:蛇窪大明神:ご朱印
平成二十六年拝受:荏原七福神・弁財天:ご朱印
ご朱印を頂く際、お茶とお菓子を頂きました。
令和五年拝受:蛇窪神社のご朱印
蛇窪神社:ご朱印
蛇窪大明神:ご朱印
白蛇弁財天:ご朱印
蛇窪神社ご朱印敷き紙
神社情報
- 住所:東京都品川区二葉4-4-12
- アクセス:東急大井町線中延駅徒歩約6分・JR横須賀線西大井駅徒歩約8分
- HP:https://hebikubo.jp/
伊藤博文公墓所:蛇窪神社周辺
明治維新の元勲:伊藤博文(写真:国立国会図書館『近代日本人の肖像』)
長州藩出身で吉田松陰の松下村塾に学びました。
高杉晋作、木戸孝允とともに倒幕に参加し、
明治新政府では内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣となりました。
大日本帝国憲法の制定を指導し、明治政府の中心的人物でしたが、
明治四十二年にハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺されました。享年六十九でした。
伊藤博文公墓所
入口は伊藤博文公の屋敷より門柱と門扉を譲り受けました。
墓所は神式で高さ約2メートルの円墳のようですが、
普段は一般公開されていない為、隣接の西大井緑地公園からわずかに見える程度です。
伊藤博文公墓所:住所
- 住所:東京都品川区西大井6-10-18
- アクセス:JR横須賀線西大井駅徒歩4分
蛇窪神社からは約10分程度の距離です。
明治維新の元勲:墓所
板垣退助墓所
品川神社社殿の裏に板垣退助の墓所があります。
ご覧頂きましてありがとうございます。