石川県金沢市:加賀百万石の城:金沢城の御城印

Contents

前田利家築城:金沢城(かなざわじょう)

金沢駅:鼓(つづみ)門

金沢駅兼六園口には高さ13.7メートルある鼓門(つづみもん)があります。
二本の太い柱に支えられており、圧巻です。
金沢の伝統芸能能楽鼓(つづみ)をイメージしているそうです。

金沢城復元模型

金沢城発掘調査

金沢城は城内各所の発掘調査により、城の変遷と特徴が次第に明らかになっています。

由緒

天文十五年(1546年)加賀一向一揆の拠点として金沢御坊建立されました。

大阪本願寺から届けられた木仏本尊影像掛軸仏具が安置された、
本願寺に直属する寺院として、御山(みやま)と呼ばれていました。

天正八年(1580年)織田信長家臣柴田勝家により攻略されて、陥落し、
佐久間盛政最初の金沢城主となりました。

天正十一年(1583年)前田利家能登七尾から移り、城主となりました。
慶長三年(1598年)利家の長子利長城主となり、加賀・能登・越中の三か国を領する、
加賀前田家の居城として発展しました。

慶長七年(1602年)落雷によって天守が焼失した後は、天守は再建されませんでした。
宝暦九年(1759年)の火災では城のほとんどが焼失しました。
その後の再建では二の丸を中心に整備されました。

明治維新後城は軍用地となり、太平洋戦争後金沢大学城内キャンパスとなりました。

大学移転後、平成十三年(2001年)県営都市公園として一般に開放され、
城郭の復元整備が進められています。

金沢城復元整備の沿革

現在は二の丸御殿復元整備事業に着手しています。

金沢城案内図

国指定重要文化財:石川門(いしかわもん)

石川門

三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから、石川門と呼ばれます。
天明八年(1788年)再建されました。

兼六園側からの入口となっています。

石川櫓(いしかわやぐら)と一の門

高麗門からなる一の門石川櫓が見えます。

一の門を入ると二の門があります。
高麗門の一の門櫓門の二の門続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成された、
枡形門(ますがたもん)となります。

門の先には金沢城総合公園案内所があります。

古代中国儒学者である荀子(じゅんし)の言葉、
『學は以て已むべからず』石碑があります。
学び続けることの大切さを述べた言葉です。

城内から見た石川門二の門

下記の写真のように、左右石垣の積み方が違うのが特徴的です。

石川門石垣

石川門の石垣は上記『切石積み(きりいしづみ)』と、
下記『粗加工石積み(あらかこういしづみ)』と、
同じ場所で違う積み方がされています。

明和二年(1765年)の改修時のものと考えられています。

河北門(かほくもん)

河北門(かほくもん)

石川門から城内に入ると右側に見える門が河北門(かほくもん)です。
宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772年)に再建されました。
明治十五年頃に無くなりましたが、絵図古写真文献での調査結果を踏まえ、
史実を尊重し、伝統工法により再建されました。

河北門の大きさは石川門より少し大きいそうです。

河北門二の門

河北門二の門の石垣は地元産戸室石隙間なく積み上げる、
『切込接(きりこみはぎ)』となっています。

二の門内部

河北門二の門内部が公開されていました。

河北門平成二十二年(2010年)再建されました。

外壁と内壁の断面図が公開されていました。

戸室石(とむろいし)による石垣積みの様子が分かります。

河北門二の門断面図

河北門二の門からの眺め

河北門二の門から見た菱櫓(ひしやぐら)です。

河北門二の門から見た新丸広場です。先に大手門がありました。

河北門一の門

一の門三の丸に入る為の最初の門です。

新丸広場から見た河北門です。
右側の石落とし付き出窓のある『ニラミ櫓台』『一の門』、
『二の門』と『桝形土塀』で構成された桝形門(ますがたもん)です。

鉛瓦葺きと屋根装飾・海鼠壁(なまこかべ)

屋根は鉛瓦(なまりがわら)が用いられています。

壁は海鼠壁(なまこかべ)で仕上げられています。

新丸(しんまる)

新丸広場

河北門を出ると見える広場は新丸(しんまる)と呼ばれ、
加賀藩二代藩主前田利長の時代の慶長四年(1599年)頃に拡張した郭(くるわ)です。

新丸の東側『越後屋敷』で、江戸中期に参勤交代で江戸に滞在する藩主に代わって、
政務を行う場所です。西側には城内の建築工事を行う『作事所』や、
登城した藩士の為に食事を用意する『下台所』などがありました。

大手門

大手門(おおてもん:尾坂門・おさかもん)跡

新丸広場の東側にはかつて大手門がありました。

高山右近の指導により、西丁口(現在の黒門口)にあった大手を、
尾坂口に移したと伝えられています。屋根付きの棟門が設けられていたそうです。

大手門(尾坂門)石垣

大手門の石垣金沢城初期(慶長)の石垣となります。
『鏡石』と呼ばれる大型の石が組み込まれています。

大手門の前の中町通りは、
加賀藩参勤交代の行列旧北国街道へ出る為に使われていた通りです。

菱櫓(ひしやぐら)

菱櫓

菱櫓二の丸で一番高い三層の物見櫓となります。

平成十三年(2001年)に、文化六年(1809年)に再建された形復元されました。

菱櫓内部

菱櫓の内部は公開されていました。

柱脚部実物が展示されていました。

木組(二階床部仕口)模型

二階の床を支える菱柱、胴差し、根太(ねだ)等の組み合わせ部分を示した模型がありました。

橋爪門(はしづめもん)

橋爪門

橋爪門寛永八年(1631年)大火の後に整備された二の丸の正門です。
橋を渡ると高麗門形式『一の門』です。
明治十四年(1881年)火災により焼失しましたが、
平成十三年(2001年)復元されました。

橋爪門二の門と橋爪門続櫓

桝形形式の門ですので、一の門を入ると二の門橋爪門続櫓があります。
桝形は城内最大の規模を誇ります。

二の門の内部には番所石垣台で仕切られた広場が設けられています。

桝形内から見た一の門です。

橋爪門二の門番所

二の門の内部には番所(上記の写真右側)があります。

番所内の階段から二の丸櫓(二階)出入りしたそうです。

橋爪門敷石

二の門床二の丸御殿玄関周りと同じく、
四半敷き(正方形の石を縁に対し四十五度になるように斜めに敷いたもの)で、
戸室石が敷かれ、格式の高い門でした。

橋爪門内部

橋爪門続櫓の内部にはエレベーターがありました。元々開口部となっており、
武器や食料を二階に上げるための荷揚げ場として利用されていたので、
昔ながらの構造を変えることなくエレベーターが設置できたようです。

橋爪門二の門内部

橋爪門続櫓橋爪門二の門は、内部は繋がっておらず
番所からの急勾配の階段出入りしていたそうです。

番所と繋がる階段

番所と繋がる階段急勾配の階段でした。

橋爪門二の門断面図

橋爪門復元整備の案内

五十間長屋

五十間長屋遠景

五十間長屋橋爪門続櫓菱櫓を結ぶ二層の多聞櫓です。

五十間長屋内部

普段は倉庫ですが、非常時には砦となります。
石落しが備えられ、格子窓鉄砲狭間となります。

出窓の石落とし

大小七箇所石落としが設置されています。

再建時に使用した木材

菱櫓五十間長屋復元にあたって、壁板や床板には能登ヒバ
天井の板材には石川県産のスギが用いられています。

壁断面実物展示

内壁竹小舞(たけこまい)縄で編み金沢市西念で採取された荒土が付けられます。
目潰し、斑直し(むらなおし)をして、中塗りの上砂漆喰が塗られています。

壁の模式図で分かりやすく解説されています。

壁をつくる工程も細かく解説されていました。

水分を乾燥させるには、各工程の間に長い場合は三か月も間をあける必要があるそうです。

木組(柱脚部仕口)展示

仕口継手(つぎて)部材を繋ぐ木構造の独特な方法です。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣

平成十年から十二年にかけ、菱櫓等の復元に伴って、一旦解体された後、
積み直されました。郭の外周『粗加工石積み』
裏手の二の丸側『切り石積み』となっています。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓台石垣様式分布は、
時期によって特徴の違いがあります。

鶴の丸土塀

手前には内堀があります。鶴の丸土塀海鼠壁(なまこかべ)で覆われています。

鶴の丸土塀前には断面図が展示されていました。
鉄砲狭間隠し狭間で、通常は板瓦でふさがれています。

南門(みなみもん)跡

江戸時代には南門と呼ばれる城門がありました。

往時は内堀沿いの土塀南門まで続いていましたが、
復元整備では内堀沿いの部分まで復元されました。

雁木坂(がんぎざか)

橋爪門続櫓に接する雁木坂(がんぎざか)と呼ばれる石段がありました。
雁木坂を登ると石畳があり、二の丸御殿の玄関へ至りました。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓台石垣の修築

鼠多門(ねずみたもん)

鼠多門(ねずみたもん)

かつて金谷出丸であった尾山神社側からの入口の門は、
鼠多門(ねずみたもん)といい、玉泉院丸位置します。櫓門形式城門です。

名前の由来としては、壁の色が鼠色(ねずみいろ)であったためそう呼ばれたそうです。

鼠多門明治十七年(1884年)火災により焼失しましたが、
令和二年(2020年)に復元されました。

鼠多門の復元には、城内の重要文化財建造物復元建造物と同様に、
釘を使わず伝統的な木組みによって組み上げる『木造軸組工法』が採用されています。

鼠多門橋

鼠多門橋水掘にかかる城内最大規模の木橋でした。

明治十年(1877年)まで存在しました。

橋下部鼠多門橋遺構を保護する為に、杭基礎とせず、
基礎コンクリート盤橋脚・鋼床版一体的に剛結する構造となっています。

鼠多門の海鼠漆喰(なまこじっくい)

城内の他の門には無い目地(めじ)黒漆喰(くろじっくい)仕上げが鼠多門の特徴です。

鼠多門内部

9時~16時30分まで内部が公開されています。

鼠多門石垣

鼠多門の石垣は、明治十七年(1884年)門が焼失した後に大部分が撤去されました。
発掘調査で数段分の石垣の残存が確認されました。
戸室石が使われて、切石積みの技法で積まれていることが明らかになりました。

屋根復元案内

金沢城の門や櫓は、木で作った下地に鉛板を張り付ける
『鉛瓦(なまりがわら)』が用いられています。

鉛瓦が使われる理由は、『荷重(かじゅう)の軽減』『美しく見せる』以外に、
『戦さの時に鉛を溶かして銃弾に加工した』という説もあるようです。

屋根復元工事案内

伝統的な屋根工事に加えて、現代工法により構造補強がされているようです。

金谷出丸(かなやでまる)跡

金谷出丸城の西側に張り出した出丸で、
現在は尾山神社の敷地になります。
いもり堀を挟んで鼠多門橋玉泉院丸と行き来していました。

玉泉院丸(ぎょくせんいんまる)庭園

玉泉院丸庭園

鼠多門のそばに玉泉院丸庭園があります。

二代藩主前田利長正室玉泉院(ぎょくせんいん)がこの場所に屋敷を構えたことから、
玉泉院丸と呼ばれるようになりました。

三代藩主前田利常が、
寛永十一年(1634年)京都から庭師を招いて庭園が造営されました。

庭園明治期に廃絶されましたが、平成二十年から二十四年までの五年間発掘調査や、
江戸時代の絵図を元に確認された遺構の上に、約二メートルの盛土をして、
平成二十七年に完成しました。

玉泉院丸庭園からは三十間長屋を見ることができます。

玉泉院丸庭園の井戸

玉泉院丸には江戸時代前期から井戸がありました。保存された井戸の上に、
戸室石製の井戸枠が置いてあります。

かつて金沢城内には多くの井戸がありましたが、現在その姿を見ることができるのは、
玉泉院丸、薪の丸、数寄屋屋敷など一部のものです。

井戸の枠は石垣にも用いられている戸室石製で、
八枚の石を組み合わせた意匠性の高いものです。

番所跡

玉泉庵

玉泉庵という茶室がありました。

段落ちの滝

発掘調査により斜面を階段状に流れ落ちる落差約七メートル滝跡が発掘されました。
辰巳用水の水が色紙短冊積石垣下部前面の滝壺から、地中の水路を経て、
滝の水源になっていたようです。

発掘された遺構埋め戻し、その上に残されていた遺構と同様の寸法の形状の石を置き、
抜き取られた石の痕跡等をもとに、新たに石を補充して滝が再現されました。

辰巳(たつみ)用水

辰巳用水寛永九年(1632年)に建造された用水路で、犀川(さいかわ)より取水し、
金沢城まで約十一キロに及びます。
寛永八年(1631年)の金沢城下の大火により、防火の必要性が高まったことが、
建設の大きな要因といわれています。

紅葉橋(もみじばし)跡

江戸時代には紅葉橋(もみじばし)という木橋が架けられていました。

松坂門跡

玉泉院丸庭園から二の丸につながる場所に松坂門跡があります。

三十間長屋(さんじっけんながや)

国指定重要文化財:三十間長屋

玉泉院丸庭園から階段を登ると三十間長屋があります。
江戸時代から残る貴重な建物として、国の重要文化財に指定されています。

令和六年三月まで保存修理工事中です。

極楽橋(ごくらくばし)

本丸附段三十間長屋二の丸との間を結ぶ極楽橋です。
名前はかつてあった金沢御堂由来するそうです。

二の丸

二の丸御殿

二の丸寛永八年(1631年)大火の後に『千畳敷』呼ばれる豪華な御殿が建てられ、
藩庁として利用されていました。

現在は二の丸御殿の復元に向け、調査が行われているようです。

五十間長屋の窓から、調査の様子を見ることができました。

二の丸御殿の復元

二の丸御殿の復元整備に向けて計画が進んでいるようです。

御殿整備に向けて様々な文献が残っています。

本丸(ほんまる)

本丸

本丸には古くは金沢御堂があった場所と伝えられ、
天正十四年(1586年)頃には天守が設けられたといわれています。

天守慶長七年(1602年)焼失し、代わって三階櫓が建てられました。
寛永の大火(1631年)までは本丸に御殿が置かれていましたが、
大火後二の丸に移りました。

本丸の森

本丸の森約五百五十種類の植物など、豊かな自然が保たれています。

藩政期ゆかりのタブノキ(鶴の丸広場)

藩政期ゆかりのタブノキの大木が残っていました。

戌亥櫓(いぬいやぐら)跡

本丸の森から五十間長屋の方面に戌亥櫓跡があります。

戌亥櫓跡からは五十間長屋菱櫓が見えます。

本丸の北西角戌亥の方角にあたることから、
『戌亥櫓(いぬいやぐら)』と呼ばれていました。

西と北『出し』という出窓がついている二層の櫓だったそうです。
宝暦の大火(1759年)の後は再建されませんでした。

戌亥櫓跡:レンガ造りのトンネル

戌亥櫓跡にあるレンガ造りのトンネルは、
明治から昭和にかけて金沢城が旧陸軍の軍用施設となった時、
弾薬庫明治から大正期に作られたものとされています。

トンネルは大きなサイズでした。

トンネル片方の入口空堀土塁となっていました。

国指定重要文化財:鶴丸倉庫

金沢城の土蔵である鶴丸倉庫は、幕末嘉永元年(1848年)建てられました。
鶴丸倉庫という名は、明治以降軍隊によって付けられたと見られ、
東の丸附段と呼ばれています。

全国の城郭土蔵の中でも最大だそうです。

辰巳櫓跡(たつみやぐら)

本丸東南角辰巳の方角に当たることから、
『辰巳櫓(たつみやぐら)』と呼ばれていました。

長屋を備えた立派な櫓が建っていましたが、
宝暦の大火(1759年)後は再建されませんでした。
石垣明治の石垣改修により改変され、ほとんど残っていないようです。

辰巳櫓からの景色

兼六園真弓坂口入口が見えます。
その先には金沢最古の神社である石浦神社があります。

丑寅櫓(うしとらやぐら)跡

本丸東北角丑寅の方角に当たることから『丑寅櫓』と呼ばれていました。

櫓を支える野面積みの石垣文禄元年(1592年)の築造と推定され、
金沢城内最古の石垣となります。

丑寅櫓宝暦の大火(1759年)後再建されませんでした。

丑寅櫓跡からの景色

丑寅櫓跡からは戸室山卯辰山が見えます。

兼六園の茶店が見えます。

鉄門(くろがねもん)跡

創建は不明ですが、寛永の大火(1631年)以降、二の丸から本丸に入る正門となりました。
鉄板を貼った扉が付けらていたことから、この名が付いたといわれています。
渡櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていました。

鉄門(くろがねもん)石垣

鉄門石垣明和三年(1766年)改修時の姿を残す、切石積み石垣です。

旧第六旅団司令部(金沢城数奇屋屋敷跡)

旧第六旅団司令部

鼠多門から東側に向かうと第六旅団司令部があります。

旧第六旅団司令部明治三十一年に建てられた木造平屋建てです。

金沢城金沢大学があった時代は、教育開放センターとして利用されていました。

現在は公園管理事務所の一部として使用されています。

切手門(きってもん)

かつて加賀藩数寄屋屋敷のあった場所に立つ旧第六旅団司令部三の丸東側の間に、
切手門があります。主に女中など身分の低い人が利用した門だそうです。

裏口門跡

数奇屋屋敷跡である第六旅団司令部から二の丸の間に裏口門跡があります。

裏口門跡から見た内堀と石垣です。

土橋門(どばしもん)跡

土橋門跡

北の丸三の丸をつなぐ土橋に面して設けられたことから、
土橋門(どばしもん)といわれていました。
桝形門に造られており、重厚な楼門があったようです。

土橋門石垣

土橋門の石垣は切石積みの技法が用いられています。
六角形の石(亀甲石)水に親しむ亀を表したもので、
防火の願いが込められているそうです。

鯉候櫓台

鯉候櫓台(りこうやぐらだい)

いもり掘鯉候櫓台(りこうやぐらだい)があります。
寛文四年(1664年)修築時の姿が残っています。

辰巳櫓跡から見た鯉候櫓台です。
明治四十年(1907年)旧陸軍により削平(さくへい)された遺存部から、
約4.8メートル分積み増されました。

戦後はテニスコートとして利用されていたようです。

鯉候櫓台石垣

明治四十年(1907年)いもり堀の埋め立てと同時に、上部が撤去され、
地上から姿を消しましたが、平成十年度から実施された発掘により、
残存高約9.6メートル分が確認されました。

石垣の復元には旧陸軍が堀に埋めた約250石優先的に使用されました。

往時の鯉喉櫓台現在の道路(お堀通り)中央付近まで続く折れ曲がりの形状でした。

石垣の復元は折れ曲がりのうち歩道手前までの範囲復元対象でした。

鯉喉櫓台石垣の特徴と施工手順

鯉喉櫓台石垣金沢城独特積みや加工の技術花開いた時期を代表するものです。

いもり堀

いもり堀明治四十年(1907年)旧陸軍により埋め立てられました。

平成十五年~十六年堀底や櫓台の調査により、いもり堀の形状が明らかになりました。
復元された堀には辰巳用水の一部を入れ、往時と同じ水深1.5メートルとなりました。

鼠多門橋の下の道路もかつてはいもり堀だったそうです。

百間掘(ひゃっけんぼり)

百間掘

現在のお堀通りはかつて百間堀(ひゃっけんぼり)と呼ばれたお堀でした。
小立野台(こだつのだい)金沢城を分断する防衛上重要な水堀で、
長さ約270メートル幅約68.4メートル水深約2.4メートルありました。

明治四十三年~四十四年(1910年~1911年)道路工事により、
現在のような姿になりました。

蓮池堀とも呼ばれ、もと蓮が群生する沼地であったことや、
金沢御堂時代に極楽浄土に見立てた地名の名残ともいわれています。

黒門(くろもん):西丁口門(にしちょうぐちもん)跡

黒門(西丁口門)跡

金沢御堂の時代はここが御堂の入口だったそうです。
江戸時代には西丁口門と呼ばれ、明治以降にいつの頃からか黒門と呼ばれたそうです。

甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡

甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡

金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には、
伴天連屋敷(宣教師の屋敷)が集まっていました。

前田家高山右近を頼って内藤如安浮田休閑などキリシタン武将や、
加賀藩士が集まっていたそうです。

高山右近と加賀前田家

キリシタン大名として有名な高山右近は、
天正十六年(1588年)前田利家のもとに迎えられました。
武将として活躍しただけでなく、金沢城の改修惣構の築造などにもかかわりました。

慶長十九年(1614年)キリシタン禁教令によって前田家を離れることになります。
その後長崎からフィリピンのマニラへ出航し、翌年到着しますが、
元和元年(1615年)病で亡くなりました。

金沢城の石垣

石垣の石材

金沢城の石垣には近郊の戸室山から産する『戸室石』が用いられています。
その他金沢市南部の『坪野石』や、
能登地域の海岸から採れる『福浦石(ふくらいし)』などが使われています。

戸室石切丁場文禄元年(1592年)採掘が始まりました。

石垣(切込み接ぎ)の施工について

金沢城の石垣見学コース

金沢城では特徴のある石垣を見学できるコースが多くあります。

薪(たきぎ)の丸東側の石垣

薪の丸

本丸にある薪の丸は、
前田家に伝わった刀剣・書籍等の宝物をおさめる蔵が置かれていました。
『薪の丸』の名は三代藩主前田利常正室である珠姫(たまひめ)本丸に居住していた頃、
薪(たきぎ)を置いた場所であることからこの名がついたといわれています。

薪の丸東側の石垣

鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)二の丸北面と同じく、
形をそろえた石材を整然と積み上げた『粗加工石積み』の石垣です。

薪の丸コース

いもり堀側に『薪の丸コース』という石垣めぐりのコースがあります。

東ノ丸北面の石垣

東の丸

本丸の中に東の丸と呼ばれる場所があります。

東ノ丸北面石垣

東ノ丸北面石垣金沢城の初期の姿がわかる数少ない貴重なものです。

V字型の石樋(いしどい):色紙短冊積(しきしたんざくづみ)石垣

V字型の石樋(いしどい)

石樋(いしどい)とは石垣の排水の為に設置された樋です。
石垣に直接排水があたらないようにする為です。

玉泉院丸庭園内にあり、当時は落差9メートルに及び石垣の滝だったことが分かります。

色紙短冊積(しきしたんざくづみ)石垣

色紙短冊状の石V字型の石樋が組み込まれた、金沢城内で最も意匠的な石垣です。

大手掘石垣

大手掘石垣

慶長期金沢城初期の石垣です。粗割り石が積み上げられています。
尾坂門台の石垣になります。

大手門近くにある大手掘です。散策路が整備されています。

大手掘は廃藩置県の際、埋められることなく今日まで残っています。

数寄屋敷西方の堀縁石垣

数寄屋敷西方の堀縁石垣

いもり堀の北端にあたる場所で水掘から約8メートル
延長約120メートルの石垣が築かれています。初期の粗い加工石を積んだ石垣の一つです。

現在は修復工事が行われています。

丸の内園地玉泉院丸から続く石垣や外堀であった場所が約半分を占めています。

申酉櫓(さるとりやぐら)下の石垣

申酉櫓(さるとりやぐら)下の石垣

申酉櫓(さるとりやぐら)下では『粗加工石積み』石垣となります。
上記の写真の看板のある部分から右側自然石を残す割石が積み上げられており、
慶長期(1598年~1615年)に創建され、刻印が見られる左側の部分は、
寛永期(1624年~1644年)新たに継ぎ足されたものです。

数寄屋敷(すきやしき)石垣

数奇屋敷石垣

数寄屋と呼ばれる藩主の側室たちの住まいがあった場所です。

数寄屋敷門下の石垣群

玉泉院丸庭園から見上げた石垣です。

石垣の刻印

石垣の刻印は、
石を切り出す時の作業分担などを示すために付けられたものといわれています。

本丸南面の高石垣

本丸南面の高石垣

辰巳櫓下から申酉櫓までの石垣です。

明治時代には上部が取り壊されましたが、
元の高さ約22メートルある城内随一高石垣でした。

いもり堀から見た石垣です。

明治の石垣

明治四十年いもり堀埋め立ての際、土取りで削り込まれた崖面を保護するために、
陸軍が築造した石垣です。

石材を斜めに落とし込む『谷積みの技法』で造られています。

発掘石の展示

石垣積み技法の模型

鶴の丸休憩館の近くに石積模型があります。

自然石積み模型(鶴の丸休憩館)

自然石積み自然の石粗割りしただけの石を用いて積む技法です。

切石積み模型(鶴の丸休憩館)

切石積み丁寧に加工した切石隙間なく積む技法です。

切石積み模型(いもり堀)

粗加工石模型(鶴の丸休憩館)

粗加工石積み割石を加工して、
形や大きさをそろえた石材(粗加工石)を用いて積む技法です。

粗加工石展示(いもり堀)

キゴ山西丁場跡の石材

平成十一年(1999年)キゴ山から運び込まれた戸室石が展示されていました。

角石(すみいし:キゴ山西丁場跡の石材)

石垣の出角に用いられた切石状に加工した角石(すみいし)です。

切石(きりいし:キゴ山西丁場跡の石材)

切石積石垣の石材(江戸前期)は正面の大きさや形を優先して加工し、
控え(奥行き)比較的短いことが特徴です。

築石(つきいし:キゴ山西丁場跡の石材)

石切丁場では一般的な築石(つきいし:平石)が作られました。

鬘石(かづらいし)

厚みのある長方形の石材で、
櫓や長屋といった建物を乗せる石垣の最上部に使用されました。

発掘調査で出土の石垣

河北門下層遺構出土の石材

平成十八年~二十年(2006年~2008年)度に実施した河北門跡の発掘調査で、
桝形路面の下層から出土した石垣材です。

橋爪門続櫓台内部から出土した旧材

橋爪門続櫓台内部には文化五年(1808年)改修以前の石垣材が多く埋め込まれています。

金沢城の御城印

金沢城の御城印五十間長屋で頂きました。

なまこ壁:御城印

辰巳用水:御城印

金沢城情報

金沢城周辺

しいのき迎賓館

大正十三年に建築された旧石川県庁本館が、
一部を保存し、しいのき迎賓館として平成二十二年(2010年)リニューアルされました。

旧県庁加賀藩初期京都三十三間堂を模した堂形(どうがた)の的場を建て、
家臣に通り矢を練習させた場所でした。
その後堂形と呼ばれた米蔵(2万5千石)があり、家臣への扶持米などが収蔵されていました。

兼六園真弓坂口

しいのき迎賓館を道路挟んだ反対側は兼六園真弓坂口があります。

広坂(ひろさか)

広坂交差点から兼六園真弓坂口前を通り、お堀通りを歩くと、
広坂の碑がありました。坂道の幅が広いのでこの名で呼ばれています。

広坂金沢中警察署跡

広坂交差点近くのしいのき緑地には、かつて広坂金沢中警察署がありました。
昭和六十三年に移転したそうです。

川口門跡(百万石通り)

加賀藩十二代藩主前田斉広(なりひろ)が、
文政五年(1822年)兼六園内に建てた隠居所の竹沢御殿三十五門の一つ、
川口門がありました。

道路を挟んで向かい側には金沢最古の神社である石浦神社があります。

蓮池門(れんちもん)跡

兼六園藩主が出入りした蓮池(れんち)御門と呼ばれた門がありました。
蓮池門(れんちもん)明治七年(1874年)取り払われました。

加賀藩家臣屋敷:奥村氏邸跡

加賀八家(かがはっか)加賀藩家臣団の頂点に位置し、
代々執政役(年寄)を務めた家が8家ありました。
大名に匹敵する石高や格式を有し、藩主とともに藩政を牽引しました。

加賀藩老臣:奥村氏邸跡(宗家)

祖は末森戦に功のあった奥村永福(ながとみ)で、奥村助右ヱ門の名で有名です。

現在は金沢医療センターがありました。

旧津田玄蕃邸

旧津田玄蕃邸

一万石の重臣である津田家名門・斯波氏後裔です。
慶長十四年(1609年)二代藩主前田利長の時代に来任しました。

津田玄蕃邸について

金沢城大手門正面左側にありましたが、宝暦の大火(1759年)の後に再建されました。

明治三年(1870年)金沢医学館が開設されました。その後明治八年石川県金沢病院となり、
金沢大学医学部の前身となりました。

大正十二年に石川県は建物の保存の為、大手門前から兼六園の現在地移築し、
兼六会館と改称されました。
昭和三十九年から金沢城・兼六園管理事務所分室として利用されています。

津田玄蕃邸:玄関

内部は数度の変遷により、往時の姿を留めていないようですが、
玄関と式台上級武士格式を忍ばせています。

辰巳用水の石管

庭園には辰巳用水の石管が展示されていました。

天保十五年(1844年)木管から石管取替られました。
石管の継ぎ手は、松脂(まつやに)桧皮(ひわだ)などを用いて漏水を防止していました。

香林坊(こうりんぼう)

香林坊橋

金沢市の繫華街の香林坊(こうりんぼう)は、
比叡山の僧の香林坊還俗して、町人の向田家の跡取りとなり、
向田香林坊と名乗り、目薬の販売で成功した故事名前の由来となっているそうです。

現在は欄干だけになっていますが、長さ約10メートル大きな橋であったそうです。

金沢城周辺の神社・寺院

金澤神社(かなざわじんじゃ)

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