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赤穂四十七士討ち入りの場所:忠臣蔵:本所松坂町吉良邸跡
JR両国駅から南へ六分歩くと吉良邸跡のある本所松坂町公園があります。
毎年12月の第2土曜日・日曜日には『元禄市』も開かれ、12月14日の討ち入りの日には、
赤穂四十七士と吉良二十士の両家の供養を行う『義士祭』が行われます。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)
由緒
吉良邸ははじめ鍛冶橋に屋敷がありましたが、刃傷事件の後、
赤穂浪士が討ち入るという噂から、周囲の大名屋敷より苦情が出て、
元禄十四年八月に御用地として幕府に召し上げられ、
九月に本所松坂町の屋敷に移り住みました。
当時の吉良邸は、
東西七十三間(約132m)、南北三十四間(約62m)の2550坪(約8400㎡)ありました。
現在「吉良邸跡」として残るのは29.5坪(約98㎡)で、当時の86分の1です。
昭和九年(1934年)に地元両国三丁目町内会有志が発起人になって、
邸内の「吉良公みしるし洗い井戸」を中心に土地を購入し、東京市に寄付し、
貴重な旧跡が維持されました。
昭和二十五年に墨田区に移管されました。
周囲の石壁は高家の格式を示すなまこ壁と、黒塗りの門を模した造りになっています。
吉良上野介義央公坐像
愛知県西尾市吉良町にある吉良家の菩提寺の華蔵寺の寄木造の坐像を参考に、
平成二十二年に建立されました。
みしるし洗いの井戸
吉良公の御首級(みしるし)を洗った井戸といわれています。
吉良家家臣二十士碑
赤穂四十七士の襲撃で犠牲となった吉良家家臣二十士の碑がありました。
忠臣蔵の映画やドラマでも有名な小林平八郎や清水一学の名前がありました。
松坂稲荷大明神
邸内にある松坂稲荷は、「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。
松坂町に置かれていた江戸幕府の御竹蔵の水門内に鎮座していましたが、
元禄十五年の赤穂四十七士の討ち入りの後、吉良邸跡へ地所清めのために遷され、
昭和十年に既存の上野稲荷と合祀され、本所松坂町公園の開園とともに遷座されました。
兼春稲荷の古写真が飾られていました。
葛飾北斎・新板浮絵忠臣蔵第十一段目
葛飾北斎の浮世絵です。赤穂四十七士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、
吉良側の剣豪の小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討死した小林平八郎は、
自分の曽祖父であると北斎自ら語っていたそうです。
吉良邸正門跡
本所松坂町公園東の両国小学校側に吉良邸正門跡があります。
現在はオフィスビルが建っています。
正門からは大石内蔵助以下二十三名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、
「浅野内匠頭家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
弓の名手・早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、
出口を固められたため、吉良家家臣は飛び出すこともできず、
戦闘不能になったといわれています。
吉良邸裏門跡
本所松坂町公園の西側には吉良邸裏門跡があります。現在はマンションになっています。
裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入しました。
一時間余り続いた討ち入りで、吉良家側の死傷者が三十八名に対し、
赤穂四十七士側は二名が軽い傷を負っただけでした。
江東義塾跡
吉良邸裏門跡のそばには、文豪・夏目漱石が、
明治十九年(1886年)から約一年間教師をしていた私立学校の江東義塾がありました。
当時の漱石は大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、
さらに学業に励み、ほとんどの教科で首席でした。
本所松坂町公園情報
- 住所:東京都墨田区両国3-13-9
- アクセス:JR両国駅徒歩約6分
ご覧頂きましてありがとうございます。
吉良家は清和天皇の後裔で、先祖は足利義氏です。吉良上野介義央の祖父・義弥の時に、
江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得ました。
京への使者を任され、立派にその大任を果たしたことから、
以後有職故実(ゆうそくこじつ)の家柄として重用されました。
忠臣蔵では悪役に仕立てられましたが、領地の三河の吉良(愛知県西尾市吉良町)では、
新田の開発や塩業の発展に尽力するなど、名君として慕われていました。
元禄十五年(1703年)の12月15日に赤穂四十七士に討たれました。享年六十二でした。