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“西の原爆ドーム 東の変電所”:旧日立航空機株式会社立川工場変電所

西武拝島線玉川上水駅が最寄駅です。
旧日立航空機株式会社立川工場変電所・公開日
東京都東大和市の東大和南公園には、
昭和二十年の空襲による大規模攻撃でできた穴が残る、
旧日立航空機株式会社立川工場変電所があります。

水曜日と日曜日に内部公開されています。説明員の方による説明を受けることが出来ます。

変電所内の展示物は撮影OKでした。

旧日立航空機株式会社立川工場変電所
昭和十三年(1938年)に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、
東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場に改名)の変電所です。

外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射や、
B-29の爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。

戦後は弾痕を残したまま後継企業の変電所として、
平成五年(1993年)まで使用されていました。

その後取り壊される予定でしたが、地域住民や元従業員の方々による運動により、
保存されることになり、平成七年(1995年)に東大和市の文化財に指定され、
現在まで2度の保存・改修工事がされました。

正面側から攻撃があったため、背面や側面には弾痕は多くありませんでした。

工場では陸軍用の航空機エンジンを製造していました。

製造していたエンジンを使用した代表機種です。
昭和十年(1935年)に実用化された「赤とんぼ」と呼ばれる機種です。

ガスや電気器具から工作機械、自動車、航空機、兵器製造などの総合メーカーであった、
東京瓦斯電気工業株式会社が、陸軍用航空機の発動機を増産するために、
大和村に新たな工場建設が計画されました。

昭和十四年(1939年)五月には、合併により日立航空機株式会社となりました。
都立東大和南公園

変電所のある都立東大和南公園は、
昭和六十一年(1986年)に米軍大和基地跡地を利用して造られました。

野球場や8面のテニスコートがあるほか、近くには市民体育館や市民プールなどがあります。

昭和二十八年(1953年)に西武鉄道に売却されていた元工場の南側の土地が、
大和村の反対運動にもかかわらず接収され、米軍大和基地が設置されました。
昭和五十六年(1981年)に返還されました。

太平洋戦争戦災犠牲者慰霊碑

敷地には平成七年に建立された太平洋戦争で犠牲になった、
旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア株式会社の前身)の従業員の慰霊碑があります。

平成十二年に小松ゼノアが移転することになり、慰霊碑がこの場に移設されました。
防護壁

敷地内には変電所の防護壁の跡があります。高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、
外部との分離をするためのものです。

防護壁は変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、
受電施設とともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取り、
保存されることになりました。

蓄電池室と内部まで貫通した銃痕

変電所の中を入ってすぐ右の場所に蓄電池室があります。
室内にある蓄電池は、非常用電源として使われていました。

内部まで貫通した銃痕がそのまま残っていました。

2階全体

配電盤

2階には配電盤がありました。向かって一番左側の低圧配電盤は、
変電所が建設された当時のもので、「昭和14年製」と記載があります。

複数の銃撃痕が残っていました。

油入遮断機

2階東側の部屋には油入遮断機があります。
変電所から工場に供給していた電気がショートしたときに、
自動的に回路を遮断して安全を守るための装置です。

昭和四十五年(1970年)製の設備のようです。
米軍500ポンド爆弾実物大模型

東大和市内で発見された不発弾は、全てが500ポンド爆弾でした。

昭和二十年(1945年)の空襲

昭和二十年には三回にわたって空襲があり、工場の八割が破壊されました。
従業員やその家族、勤労動員された学生など100名を超える方が亡くなりました。

B-29をはじめ、空襲に参加した米軍の飛行機です。

B-29が落とした爆弾の破片もありました。

空襲時の古写真もありました。

外階段

変電所は1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、
稼働時は従業員は外階段から出入りしていました。

外階段の保護のため、現在は立ち入りが制限されています。

仮眠室

2階には仮眠室もありました。
東洋陶器の洗面台

変電所に残る洗面台は東洋陶器(現・TOTO)製のもので、鷲のトレードマークがありました。

給水塔

給水塔は、変電所の西方約230メートルのところにあり、高さが約25メートルありました。
老朽化に伴い平成十三年(2001年)三月にやむなく取り壊されることになりました。

戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により操業を停止するまで、
給水塔も働き続けました。
爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、保存されることになりました。

給水塔は、工場に必要な水の確保のため、150メートルもの深井戸を掘り、
やっとの思いで水脈を掘り当てました。その水を工場に送り続けるために、
給水塔は重要な施設でした。

被爆アオギリ二世

昭和二十年(1945年)8月6日、広島に原爆が投下されました。爆心地から約1.3㎞で被爆し、
爆心地側の約半分が熱線と爆風によって焼けてえぐられたアオギリは、
翌春には新芽を出しました。

この地にある被爆アオギリ二世は、広島の「被爆アオギリ」の種子から育てられました。
変電所情報
- 住所:東京都東大和市桜が丘2-167-18都立東大和南公園内
- アクセス:西武拝島線・多摩モノレール玉川上水駅徒歩約5分
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