【訪問寺社・史跡まとめ】新田義貞ゆかりの地

これまで訪問した新田義貞ゆかりの地の寺社・史跡をまとめました

新田義貞(にったよしさだ)

新田義貞

新田義貞上野国新田荘御家人で、
元弘年間(1331年~1333年)後醍醐天皇の綸旨を受け、鎌倉幕府を滅ぼし
建武の新政の樹立立役者の一人となりました。

後醍醐天皇足利尊氏との間に対立が生じると、
後醍醐天皇側事実上の総大将となりました。

後醍醐天皇皇子である、
恒良親王(つねよししんのう)・尊良親王(たかよししんのう)奉じて北陸に赴き
越前国を拠点としましたが、越前国藤島戦死しました。享年三十八伝わります。

群馬県太田市

新田義貞挙兵の地:生品神社(いくしなじんじゃ)

元弘三年(1333年)五月八日新田義貞後醍醐天皇の綸旨を受けて、
生品神社の境内で、鎌倉幕府討伐旗揚げをしました。

徳川氏始祖新田家墓所:長楽寺(ちょうらくじ)

新田氏徳川氏の祖先といわれ、新田義季(よしすえ)が、
臨済宗開祖である栄西高弟栄朝を招いて開基しました。

埼玉県狭山市

狭山八幡神社(さやまはちまんじんじゃ)

創建室町時代初期とされています。
新田義貞信仰篤く、一時期『新田の八幡宮』と称されたこともありました。

埼玉県所沢市

小手指ヶ原古戦場(こてさしがはらこせんじょう)と白旗塚(しらはたづか)

新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ幕府軍は、緒戦(しょせん)となった小手指ヶ原で、
三十余回も打ち合いました。

小手指ヶ原古戦場石碑の裏にある小高い塚『白旗塚(しらはたづか)』と呼ばれ、
新田義貞がここに陣を張り源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。、

山口観音金乗院(こんじょういん)

霊馬堂には新田義貞公霊馬が祀られています。

東京都東村山市

久米川古戦場(くめがわごせんじょう)

元弘三年(1333年)5月12日久米川鎌倉幕府軍と戦い勝利しました。

近くの八国山には、新田義貞逗留したことから名付けられた将軍塚もあります。

久米川熊野神社(くめがわくまのじんじゃ)

新田義貞久米川合戦の折、後詰を置いた場所といわれています。

秋津神社(あきつじんじゃ)

元弘の戦いの際に、
新田義貞日本武尊武威を慕ってこの地に陣を張り不動像をかけて祈念し、
後に不動像を安置して鳥居を設けて祀ったことが創始といわれています。

神奈川県鎌倉市

化粧坂(けわいざか)

化粧坂(けわいざか)鎌倉の交通の要衝であり、
元弘三年(1333年)新田義貞鎌倉攻めでも戦場となりましたが、
新田軍化粧坂突破できませんでした。

乱橋(みだればし)

材木座九品寺近くにある乱橋は、
鎌倉幕府末期に鎌倉に攻めてきた新田義貞軍鎌倉幕府軍激しく戦った場所です。

開基・新田義貞:九品寺(くほんじ)

延元二年(1337年)新田義貞鎌倉攻めの際の、
敵方北条方の戦死者の霊を慰める為に建立されました。

小動神社(こゆるぎじんじゃ)

元弘三年(1333年)には新田義貞鎌倉攻めの戦勝を祈願したと伝えられています。
義貞は建武年間(1334年~1338年)には社を再興しています。

鎌倉幕府終焉の地:東勝寺跡(とうしょうじあと)

元弘三年(1333年)新田義貞による鎌倉攻めにより、
鎌倉幕府第十四代執権北条高時東勝寺一族郎党八百人余りとともに自害して、
鎌倉幕府滅亡しました(東勝寺合戦)

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