北条政子ゆかりの地:影隠地蔵(かげかくしじぞう)と清水八幡(しみずはちまん)
源義仲嫡男:源義高(みなもとのよしたか)
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ、病に伏しました。
後に藤内光澄は大姫の母の北条政子によって獄門にかけられました。
影隠地蔵(かげかくしじぞう)
影隠地蔵
狭山中央通りの奥州道交差点にあります。
影隠地蔵由緒
源義高が追手からの難を避ける為に、地蔵の背後に姿を隠したことから、
影隠地蔵(かげかくしじぞう)と呼ばれています。
地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、その中に安置されていたそうですが、
道路の拡張により、現在の場所に移動しています。
明治七年(1874年)に現在の石の地蔵になりました。
木像の地蔵は明治の廃仏毀釈により処分されたようです。
影隠地蔵情報
- 住所:埼玉県狭山市柏原
- アクセス:西武新宿線狭山市駅下車日生団地行きバス乗車『奥州道バス停』下車徒歩1分
清水八幡(しみずはちまん)
清水八幡
入間川のそばで国道16号線沿いにあります。入間川四丁目交差点の近くになります。
清水八幡由緒
元暦元年四月に入間河原で藤内光澄に討たれた源義高は、
里人によって入間河原に葬られました。
同じ年の五月に大姫の母親である北条政子は、墓所に義高を祀る社を建立し、
政子自身も参拝したという言い伝えが残ります。
建立当時は赤の玉垣をめぐらした壮麗な社殿を持つ大社でしたが、
応永九年(1402年)八月の大洪水で大破し、再建される事なく、
成円寺に遷されました。幕末に現在地に石の祠が出土しました。
明治の廃仏毀釈で移転先の寺が廃寺となった為、
現在地に遷座し、石の祠を本殿として、木造の覆殿をかけました。
清水八幡本殿
清水八幡境内
御神木のような大きな木が目印です。
大姫の母親:北条政子
周囲の反対を押し切り、伊豆に流罪となっていた源頼朝の妻となり、
後の鎌倉幕府将軍の源頼家、源実朝を産みました。
頼朝の死後は『尼将軍』として、鎌倉幕府を支えました。
その後源実朝の暗殺や後鳥羽上皇による承久の乱などの危機を乗り切り、
嘉禄元年(1225年)に亡くなりました。享年六十九でした。
清水八幡情報
- 住所:埼玉県狭山市入間川3-35-10
- アクセス:西武新宿線狭山市駅下車狭山27系統バス『下諏訪バス停』下車徒歩5分
影隠地蔵と清水八幡周辺
入間川諏訪神社
信濃の諏訪大社の御祭神を約四百年前に勧請したという事です。
戦国大名の武田氏滅亡後、多くの家臣が入間川流域に移り住んだという事で、
この人達によって創建されたと考えられています。
『なすとっかえ』という風習があるようです。
自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神社からナスを戴いて帰るという事です。
神社の裏にあった底なし沼にいた龍神の伝説があったそうです。
入間川諏訪神社情報
- 住所:埼玉県狭山市入間川4-4483
- アクセス:西武新宿線狭山市駅徒歩約18分
旧入間川小学校(入間川小学校跡地公園)
狭山八幡神社の近くに旧入間川小学校の跡地があります。
現在は『入間川小学校跡地公園』となっています。
入間川小学校は平成十二年に移転したそうです。
公園内には『旧入間川小学校の鐘』も残っていました。
高台にあるのでとても景色が良かったです。
入間川小学校跡地公園情報
- 住所:埼玉県狭山市入間川1-4-71
- アクセス:西武新宿線狭山市駅徒歩約2分
所沢駅:レオ神社
所沢駅には埼玉西武ライオンズ公認のレオ神社がありました。
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清水冠者(しみずかじゃ)と号します。信濃源氏の源義仲の嫡男となります。
寿永二年(1183年)に父の源義仲が平家打倒の兵を挙げました。
その後治承四年(1180年)に兵を挙げていた源頼朝との間で対立関係となり、
和議の人質として、義高は頼朝の娘・大姫の婿という名目で鎌倉に向かいました。
寿永二年七月に義仲は平家を破り入京しますが、京を治めることができず、
後白河法皇とも対立しました。
源頼朝との間で戦となり、寿永三年(1184年)の宇治川の戦いで敗れ、
粟津の戦いで義仲は討たれました。
元暦元年(1184年)四月に頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、
密かに義高を逃がそうとしますが、夜になって事が露見し、頼朝は兵を派遣しました。
武蔵国で追手に捕らえられて、入間河原で藤内光澄(とうないみつずみ)に討たれました。
享年十二でした。