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関東の華:厩橋城(まやばしじょう)・前橋城(まえばしじょう)
前橋城は関東七名城の一つといわれています。
関東七名城
再現前橋城復元図
利根川の浸食により、前橋城は本丸が崩壊の危機となりました。
しかし当時の藩主松平家は借財が多く、城を修築するだけの力が無かった為、
幕府の許可を受け、松平家は飛び地の川越城に移り、
以後前橋は川越藩の支配となり、明和六年(1769年)に前橋城は破却されました。
天保年間(1830年~1843年)に利根川が改修されたことで、本丸崩壊の危機は免れました。
また前橋領で特産の生糸の輸出で財力が回復すると、
文久三年(1863年)に松平直克は幕府に願い出て、前橋城の再築が開始されました。
再築前橋城は文久三年(1863年)に着工後、慶応三年(1867年)3月に完成しました。
由緒
旧名は厩橋(まやばし)といい、室町時代中期に厩橋城は長野氏によって築城されました。
その後戦国時代、北条氏、長尾氏(上杉氏)、織田氏と支配者が変わり、
天正十年(1582年)の本能寺の変後に再び北条氏の元になりました。
豊臣秀吉の小田原征伐の後、関東の支配を任された徳川家康によって、
平岩親吉に厩橋城と3万3千石が与えられました。
その後酒井氏に変わり、酒井忠挙の代に厩橋が前橋に改められ、前橋城となりました。
前橋城跡の碑
かつて三の丸東南隅の土居上に、現在『前橋城跡の碑』が建てられています。
廃藩置県後に城郭は壊されましたが、本丸御殿は残されて群馬県庁舎となりました。
現在の群馬県庁となります。
土塁跡
群馬県庁周辺には土塁跡が多く見られました。
前橋東照宮裏の土塁跡
前橋東照宮の裏の前橋公園には土塁跡が残っていました。
車橋門跡(くるまばしもんあと)
大手町二丁目に車橋門跡がありました。
外曲輪(そとくるわ)から城内に至る重要な門だったそうです。
石垣の高さは1.4メートルあります。渡櫓門(わたりやぐらもん)であったようです。
県庁前通りを東に歩き、日本経済新聞社前橋支局の横に車橋門跡の石碑があります。
車橋門跡石垣案内
前橋城の御城印
御城印は、前橋駅構内の『前橋物産館 Vento Maebashi』で購入しました。
関東七名城:前橋城:御城印
松平秀康公系譜の城:前橋城:御城印
徳川家康の次男である松平秀康(結城秀康)の五男の松平直基の子孫の系譜が、
幕末まで前橋藩の藩主でした。
華の城:厩橋城:御城印
関ヶ原の戦いの後、徳川家康が酒井重忠に『汝に関東の華をとらす』と言って、
厩橋城を与えた逸話があります。
前橋城情報(本丸跡:前橋城跡の碑)
- 住所:群馬県前橋市大手町1-1
- アクセス:JR両毛線前橋駅下車バス7分
前橋城周辺
国指定登録有形文化財:群馬会館
群馬会館は昭和五年(1930年)に建築された群馬県最古の公会堂です。
平成八年(1996年)に国の登録有形文化財に指定されました。
群馬県庁昭和庁舎の向かい側にあります。
楫取素彦(かとりもとひこ)と松陰の短刀銅像
平成二十八年(2016年)に大河ドラマ『花燃ゆ』の放送を契機に、
長州藩士であった群馬県初代県令の楫取素彦の妻が、
兄の吉田松陰の短刀を素彦に託す銅像が建立されました。
楫取素彦功徳碑
明治二十三年に群馬県令時代の楫取素彦の功績を称える碑が建立されました。
銅像や石碑は前橋公園の芝生広場に建てられています。
ご覧頂きましてありがとうございます。
川越城(河越城):埼玉県川越市
忍城:埼玉県行田市
宇都宮城:栃木県宇都宮市
金山城:群馬県太田市
唐沢山城:栃木県佐野市
多気城:茨城県つくば市あるいは太田城:茨城県常陸太田市