群馬県高崎市:高崎城の御城印

初代高崎藩主・井伊直政・高崎城(たかさきじょう):鎌倉幕府初代侍所別途・和田義盛後裔の城・和田城(わだじょう)

旧和田城(わだじょう)

高崎城の地には、平安時代末期和田城と呼ばれる城がありました。
築城はこの地の豪族である和田義信といわれます。

和田義信は、鎌倉幕府有力御家人和田義盛六男で、
建暦三年(1213年)和田合戦討死しました。享年二十八でした。

和田城の遺構は現在全て失われているようです。

鎌倉幕府有力御家人・和田義盛(わだよしもり)

和田義盛

久安三年(1147年)三浦義明の子である杉本義宗の子として生まれました。
源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府初代侍所別当になりました。
『比企能員の乱』『畠山重忠の乱』では北条方につきましたが、
『和田義盛の乱(和田合戦)』を起こし、討死しました。

高崎城由緒

徳川家康関東入部とともに箕輪城主であった井伊直政は、
慶長二年(1597年)家康の命により、中山道三国街道分岐点にあたる要衝の地である、
和田城のあった地に城郭を築きました。

翌年、井伊直政箕輪城から移り、地名『高崎』と名付けました。
直政慶長五年(1600年)関ケ原の戦いの後、佐和山に移封となりました。

その後高崎藩は譜代大名により城主が目まぐるしく入れ替わりました。

寛永十年(1633年)には江戸幕府三代将軍徳川家光の命により、
この城に幽閉されていた徳川忠長が、大信寺において自刃しました。

明治維新後歩兵第十五連隊駐屯地として使用され、城の大部分は破却されました。

乾櫓のそばには歩兵第十五連隊碑がありました。

乾櫓(いぬいやぐら)

乾櫓市内の農家に払い下げられ、納屋として使われていましたが、
群馬県重要文化財指定されたのを期に、
昭和五十一年(1976年)三の丸模擬石垣上に移築復元されました。

東門(ひがしもん)

同じく農家に払い下げられていた東門は、
昭和五十五年(1980年)乾櫓の横移築復元されました。

通用門として使われていたようです。

追手門跡

高崎城追手門は現在の高崎高松郵便局辺りにありました。

三の丸外囲(さんのまるそとがこい)の土居(どい)と堀

高崎城の昔の面影は、三の丸外囲の土居と堀にわずかに止めています。

堀には鯉が泳いでいました。

土塁の遺構

土塁には登ることがきるようになっています。

お濠端通りには土塁の遺構があります。

高崎城址公園・高崎市役所

平地に建てられた高崎城五万一千六百十三坪広大な敷地が特徴で、関ケ原の戦いでは、
徳川秀忠率いる三万五千の大軍を三の丸城下の寺院に逗留させました。

城跡は現在高崎城址公園市役所となっています。

高崎市役所の向こうは烏川という川が流れています。

高崎公園

高崎城南西には高崎公園があります。園内に残る県指定天然記念物『はくもくれん』は、
元和五年(1619年)高崎城主となった安藤重信がこの地に良善寺建立した時、
境内に植えられたと伝えられています。

高崎城の御城印

高崎城:御城印

和田城:御城印

初代高崎藩主・井伊直政:赤備え武将印

御城印販売所:文開堂書店

高崎駅西口から高崎城に向かうの途中にある『文開堂書店』で、
御城印・武将印を購入しました。

高崎城情報

  • 住所:群馬県高崎市高松町城址公園内
  • アクセス:JR高崎線高崎駅西口徒歩約15分

高崎城周辺

ハープの泉

JR高崎駅西口高崎市庁舎を結ぶシンフォニーロード沿いに、
ハープの泉があります。ハープをモチーフにしたモニュメントがありました。

国指定登録有形文化財:豊田屋旅館本館

高崎駅西口には木造旅館『豊田屋旅館』があります。
明治十二年(1879年)に創業しました。

現在の建物昭和七年築のものだそうです。入母屋造り瓦葺きで、
玄関庇(ひさし)にも軒唐破風(のきからはふ)として、懸魚(けぎょ)が設けられています。

あら町諏訪神社

高崎駅西口をまっすぐ歩くと、『あら町諏訪神社』がありました。

上信電鉄高崎駅

JR高崎駅の横には、『上信電鉄高崎駅』があります。

終点は下仁田駅で、途中世界遺産富岡製糸場などに行くことができます。

上毛かるた

お土産に上毛かるたを買って帰りました。

JR高崎駅:特別史跡・上野三碑(こうずけさんぴ)レプリカ

JR高崎駅には『上野三碑(こうずけさんぴ)』レプリカが展示されていました。

多胡(たご)碑

上野三碑(こうずけさんぴ)とは飛鳥・奈良時代に建てられた、
「山上(やまのうえ)碑」「多胡(たご)碑」「金井沢(かないざわ)碑」3つの石碑総称です。

山上(やまのうえ)碑

山上碑は完全な形で残る日本最古の石碑です。

金井沢(かないざわ)碑

神亀三年(726年)に建てられた石碑の碑文の中にある『群馬』という文字は、
群馬県内では最古の事例だそうで、県名のルーツを知る上で貴重な資料です。

ご覧頂きましてありがとうございます。