寺宝公開時のみご朱印授与:早雲寺(そううんじ)
令和七年12月8日(月)の寺宝公開の際にご朱印を頂きました(通常は境内公開のみです)
由緒
大永元年(1521年)に北条早雲の遺言で、
その子北条氏綱が京都の大徳寺より以天宗清(いてんそうせい)を招き、
創建したと伝えられます。
天正十八年(1590年)の小田原征伐で豊臣秀吉軍の本陣が置かれましたが、
石垣山城が完成すると焼き払われました。

寛永四年(1627年)に菊径宗存によって再建されました。
惣門

金湯山という扁額が飾られていました。
中門

令和元年(2019年)五月に完成しました。

地蔵菩薩

本堂

現在の本堂は寛政年間(1790年代)に建立されました。

昭和三十年代までは茅葺き寄棟造りだったそうです。

猿によって堂内が荒らされる被害が出ているため、大戸が閉められていました。

庭園からみた本堂です。北条家家紋があります。

令和七年十二月寺宝公開時:本堂

枯山水石庭

本堂裏には庭園があります。

北条早雲の末子で、北条一門の長老として重きをなした北条幻庵長綱の作庭とされ、
『香炉峰』の銘が井あります。

調査によると江戸時代前期の作庭と推定され、
おそらく江戸時代の再建時に戦国時代の庭園を整備したものと思われます。

令和七年十二月寺宝公開時:枯山水庭園

ご住職の御説明によると、開山堂の茅葺き屋根は次回から銅板に変わるそうです。
茅葺きは劣化が早く、葺き替えが大変だというのが理由だそうです。

カエルの石像もありました。

北条五代の墓

北条一門は、北条氏政の弟の北条氏規が豊臣秀吉に許され、
河内狭山一万石の城主となり(狭山北条氏)、
鎌倉玉縄城主の北条氏勝が徳川家康の傘下になり、
下総岩富に一万石を与えられ(玉縄北条氏)、両家の家系は江戸時代を通じて存続しました。

北条五代の墓は、狭山北条五代の北条氏治によって、
寛文十二年(1672年)に供養塔として建立されました。

JR小田原駅の近くには、小田原征伐で切腹した北条氏政・氏照墓所があります。

北条五代の墓のそばに、『大真院殿秀山俊公居士』と書かれた墓石がありました。
明治二十三年(1890年)に子孫によって建立された北条氏次の墓で、
北条氏直の嫡男といわれています。
令和七年十二月寺宝公開時:北条五代の墓


今大路道三の墓

江戸幕府二代将軍徳川秀忠の侍医で曲直瀬家三代の今大路道三の墓がありました。

宗祇・祇空の墓

連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501年)二月に越後上杉氏の許を発ち、
弟子らと関東各地で連句を催しながら駿河、美濃へ向かう旅の途中、
翌二年7月30日に箱根湯本で客死しました。享年八十二でした。

早雲寺には供養塔が建てられました。

宗祇の墓のそばには享保十六年(1731年)に境内に草庵を結んで、
宗祇の墓守として晩年を送った祇空の墓があります。
開山堂

開山の以天宗清(いてんそうせい)は、永政年中に伊豆韮山の香山寺に入り、
大永元年(1521年)の早雲寺の創建に深く関わりました。

山上宗二(やまのうえそうじ)追善碑

千利休の高弟であった山上宗二の追善碑がありました。
たびたび豊臣秀吉の怒りを買い、追放されて、最後は北条氏に仕えていました。
利休の仲裁により赦免されましたが、北条幻庵に義理立てして、またも秀吉の怒りを買い、
打ち首にされました。享年四十六でした。
梵鐘

元徳二年(1330年)に鋳造されました。天正十八年の小田原攻めの時、
石垣山一夜城で使用したものです。

宗祇句碑

令和七年十二月寺宝公開時:境内

早雲寺のご朱印
令和七年十二月・寺宝公開時拝受:ご朱印

ご朱印には虎の印「禄壽應穏(ろくじゅおうおん)」が押印されています。
北条氏綱の時代から、北条氏の出した文書(朱印状)に押印されていました。
寺院情報
- 住所:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
- アクセス:小田急箱根鉄道線箱根湯本駅徒歩約14分
- HP:https://www.kintouzan-souunji.jp/
ご覧頂きましてありがとうございます。













