埼玉県比企郡嵐山町:鎌倉幕府有力御家人:畠山重忠居館:菅谷館跡の御城印

続日本100名城:菅谷館跡(すがややかたあと)

東武東上線武蔵嵐山(むさしらんざん)駅から徒歩約15分の地に、
鎌倉幕府有力御家人畠山重忠居館と伝えられる菅谷館跡があります。

武蔵嵐山駅前:比企一族と武蔵武士・畠山重忠のぼり

2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にちなんで、
畠山重忠比企一族ゆかりの地ののぼりがたっていました。

武蔵嵐山駅の改札前には、比企尼三人の娘である比企三姫の看板もありました。

比企尼(ひきのあま)と比企三姫

比企尼と比企三姫

鎌倉幕府初代将軍源頼朝乳母であり、
鎌倉幕府有力御家人比企能員猶子にあたります。
の『丹後内侍(たんごのないし)』は源頼朝子を産んだという説があります。
の『姫の前』は鎌倉幕府有力御家人二代執権である北条義時となり、
同じくの『若狭局(わかさのつぼね)』鎌倉幕府二代将軍源頼家となりました。

鎌倉での比企一族の屋敷跡妙本寺という寺院になっています。

妙本寺には若狭局を祀る蛇苦止堂(じゃくしどう)もあります。

畠山重忠

畠山重忠

畠山氏坂東八平氏の一つである秩父氏一族です。
畠山重忠源頼朝の挙兵の際、最初は平家方として頼朝討伐に参加しましたが、
その後頼朝に帰伏しました。
鎌倉幕府の有力御家人として、『鎌倉武士の鑑』とも称されました。
しかし北条時政謀略により、北条義時率いる大軍に滅ぼされました(畠山重忠の乱)
享年四十二でした。武勇の誉れ高く
清廉潔白な人柄から『坂東武士の鑑(かがみ)』と呼ばれました。

畠山重忠パネル

武蔵嵐山駅西口にある観光案内所、
『嵐山町ステーションプラザ嵐なび』の前に畠山重忠のパネルがあります。

レンタサイクルもあるようです。

埼玉県立嵐山史跡の博物館

埼玉県立嵐山史跡の博物館

菅谷館跡の一部は埼玉県立嵐山史跡の博物館となっています。

国道254号線唐子バイパス沿いにあります。
駐車場がありますので、菅谷館跡見学はここで車を駐車できます。

月曜日休館日となっています。入館料一般100円中学生以下無料です。
(令和四年九月現在)

畠山重忠人形

入口にはしゃべる畠山重忠人形がありました。

写真撮影が可能でしたので、畠山重忠人形の写真を撮ることができました。

菅谷館跡

菅谷館跡:由緒

東京ドーム三個分約十三万㎡敷地面積があります。
鎌倉幕府有力御家人畠山重忠の居館として伝えられていますが、
現在残っているのは戦国時代山内上杉氏扇谷上杉氏が争った、
長亨年中(ちょうきょうねんちゅう)の大乱(1487年~1505年)の中で再整備されました。

『畠山重忠の乱』と呼ばれる『二俣川合戦』の際も、ここから出陣したようです。

菅谷館跡案内図

二重土塁

現在の国道254号線下の谷となっています。

内側に高い土塁が築かれていて、二重土塁となっています。

埼玉県立嵐山史跡の博物館の入口となります。

畠山重忠像

昭和四年(1929年)に建てられた竹筋コンクリート製の像になります。

二ノ郭土塁の上に建っています。

二ノ郭(にのくるわ)

二ノ郭東西約二百五十メートル二十~五十メートル細長い郭となります。

忠魂祠

二ノ郭に忠魂祠があります。昭和二年創建され、
西南戦争以来の嵐山町戦没者祀られています。

三ノ郭(さんのくるわ)

三ノ郭武士や騎馬の集合場所として利用されていました。

三ノ郭建物跡と井戸跡

三ノ郭建物跡1棟井戸跡1か所の位置が示されています。

出桝形土塁(でますがたどるい)

本郭(ほんくるわ)を守る高い土塁になります。

南郭(みなみくるわ)

都幾川(ときがわ)に面する崖上に細長く造られています。

階段を下りた低いところにあります。利用方法はわかっていないそうです。

菅谷館跡の御城印

菅谷城:御城印

中央の印章関東管領上杉氏家紋『竹に二羽飛び雀』と、
戦国時代後北条氏家紋『北条鱗』となっています。

菅谷城印由来

御城印書置きとなっており、用紙はユネスコ無形文化遺産で、
小川町東秩父村で生産される高級手すき和紙細川紙が使用されています。

菅谷館跡(埼玉県立嵐山史跡の博物館)情報

菅谷館跡周辺

稲荷塚古墳

武蔵嵐山駅から菅谷館跡歩いて向かう途中、
菅谷中学校のそばに稲荷塚古墳がありました。

古墳の上稲荷社があったので稲荷塚と呼ばれています。
かつては周辺には多数の古墳群が存在したそうです。

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