武田勝頼公主従自害の地:田野寺:景徳院(けいとくいん)
武田勝頼(たけだかつより)
由緒
天正十年(1582年)三月、武田勝頼は、織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻により、
甲府の躑躅ヶ崎館から移転した新府城(韮崎市)を放棄し、岩殿城の小山田信茂を頼りますが、
途中で信茂は離反し、滅亡しました。
その後、六月の本能寺の変後に発生した、天正壬午の乱を経て甲斐に入城した徳川家康は、
勝頼と家臣らの菩提を弔う為、田野郷一円を寺領として寄進し、
勝頼の忠臣の小宮山内膳友晴の弟・広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山とし、
田野寺を建立しました。
天正十六年(1589年)には伽藍が完成し、甲将殿の裏に墓地を設け、手厚く葬りました。
総門
総門の横には『武田勝頼公廟所』の石碑が建っていました。
山門
創建当時の伽藍は、天保年間(1830年~44年)や弘化二年、
明治二十七年の火災で失われました。
山門のみが建立当時の面影を残しています。
山門の屋根は茅葺きでしたが、平成四年の解体修理により、
当初は柿葺きだったことが分かり、銅板葺として整備されました。
参道階段
本堂
境内には昭和五十二年に建立された天童山景徳院堂宇再建の碑がありました。
境内案内図
旗竪松
武田勝頼は、織田軍との戦いが始まる前に、
世子の信勝に楯無(たてなし)の鎧を着せて元服を行い、
武田家跡目継承の儀式である擐甲(かんこう)の礼を行いました。
その際御旗(みはた)を立てたのが旗竪の松といわれています。
昔の写真を見ると大きな一本松がありましたが、今は切り株が残り、
横に新しい松が植えられていました。
境内
静かで落ち着いた境内でした。
天然記念物:景徳院のサクラ
甲将殿(こうしょうでん:御霊屋)
甲将殿には武田勝頼主従の位牌が祀られています。
山梨県指定史跡:武田勝頼の墓
甲将殿の裏手にあります。
中央が武田勝頼の宝篋印塔で、向かって右側が北条夫人の五輪塔、
左側には信勝の五輪塔があります。
勝頼の宝篋印塔の側面には、安永四年(1775年)三月十一日と刻まれており、
当時の住職が勝頼の二百年遠忌に建立したとあります。
武田勝頼公生害石
生害石(しょうがいいし)とは自害する場所として選んだ石の事です。
北条夫人生害石
甲将殿のそばには、武田勝頼公・北条夫人・武田信勝公の生害石がありました。
武田信勝公生害石
没頭地蔵尊
勝頼の死後、地元の人々により首の無い地蔵が三体安置されました。
総門のそばには没頭地蔵尊への近道の案内がありました。
北条夫人辞世の句
『黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒』 北条夫人の辞世の句です。
辞世の句碑
『おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ はれてゆくへの 西の山の端』武田勝頼の辞世の句です。
『あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほどは 春の夜の夢』武田信勝の辞世の句です
岩舟地蔵
庭園
首洗い池
勝頼父子の首を洗った場所といわれています。
景徳院のご朱印
令和五年拝受:ご朱印
令和六年拝受:景徳院・栖雲寺秋のコラボ朱印
令和6年10月12日~11月17日の週末限定で、
天目山栖雲寺(せいうんじ)との秋のコラボ朱印が授与されました。
栖雲寺は武田勝頼が織田家に追われ、最後に目指したお寺でした。
寺院情報
- 住所:山梨県甲州市大和町田野389
- アクセス:JR甲斐大和駅より天目行バス乗車景徳院入口下車
景徳院周辺
姫ヶ淵
武田勝頼主従が壮絶な最期を遂げた際、北条夫人の侍女十六人は、
日川に身を投じて殉死したと伝えられています。
当時の日川は現在と違い水量が多い川だったそうです。
現在は上流で発電用水を取水しているため、水量が少なくなっています。
史跡:土屋惣藏片手切・石碑
天目山栖雲寺(せいうんじ)に向かった勝頼一行は行く手を阻まれ、
田野の郷に引き返しました。この時家臣の土屋惣蔵は主君の危機を救う為、
最も崖道の狭い所で岩角に身を隠し、片手は藤蔓につかまり、片手には刀を持ち、
迫りくる敵兵を次々に斬っては谷川に蹴落としたと伝えられます。
日川は血で三日間も紅く染まったといわれ、三日血川いう別名があります。
史跡:鳥居畑古戦場
姫ヶ淵にある駐車場に車を止め、少し歩くと、鳥居畑古戦場があります。
武田家滅亡前の最後の激戦地でした。
史跡:四郎作古戦場
武田勝頼家臣の小宮山内膳友晴は、勝頼に疎まれ蟄居中でしたが、
天目山の戦いの際、蟄居中の身ながら忠節を尽くすために駆け付け、
この地に陣を敷き奮戦激闘しましたが、鳥居畑で討死しました。
幕末の儒学者で有名な水戸藩の藤田東湖は、『天晴な男、武士の鑑、国史の精華』と、
その忠臣ぶりを絶賛しました。
やまと天目山温泉
やまと天目山温泉に立ち寄りました。いい温泉でした。
日本有数の高アルカリ泉だそうです。
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天文十五年(1546年)に武田信玄の四男として生まれました。
母は信濃国諏訪領主の諏訪頼重の娘です。長兄の義信が廃嫡されると継嗣となり、
元亀四年(1573年)には信玄の死により家督を継ぎ、
甲斐武田氏第二十代当主となりました。
天正三年(1575年)の長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ、
信玄以来の多くの重臣を失いました。
天正十年(1582年)に織田信長・徳川家康・北条氏政による、
甲斐・信濃・駿河・上野への侵攻による甲州征伐が起こりました。
三月の天目山の戦いに敗れ、子の信勝、北条夫人らとともに自害しました。
享年三十七でした。