江戸三十三観音霊場第十二番札所:伝通院(でんづういん)
江戸三十三観音霊場
江戸三十三観音霊場は特に専用の御朱印帳はありませんでしたので、
寺院用の御朱印帳に頂きました。
於大(おだい)の方
享禄元年(1528年)に三河刈谷城主である水野忠政の娘として生まれました。
天文十年(1541年)に徳川家康の父である岡崎城主の松平広忠と結婚しました。
実家の水野家が松平氏の主君である今川氏と絶縁し、織田方についた為、
広忠により離縁され、阿久比城主の久松俊勝と再婚しました。
今川氏より独立した家康は、俊勝と於大の方の3人の息子を家臣とし、
松平の姓を与え、於大の方を母として迎え入れました。
慶長七年(1602年)に伏見城で亡くなりました。享年七十四でした。
由緒
応永二十二年(1415年)に了誉上人により、小石川極楽水の地に、
小さな草庵として無量山寿経寺という名で開山されました。
極楽水は現在、小石川七福神の弁財天が祀られています。
於大の方を埋葬する寺院に関して、
増上寺を開山した聖聡上人の師である了誉上人の故地(こち:ゆかりの地)に、
新たな寺院を建立するようにという観智国師の言上を受け、
伝通院の建立が決まりました。
慶長十三年(1608年)に堂宇が竣工しました。
於大の方の法名より『伝通院(でんづういん)』と呼ばれるようになりました。
慶長十八年(1613年)には増上寺から学僧三百人が移されて、
檀林(仏教学問所)として、多い時には千人もの学僧が修行していたそうです。
山門
昭和二十年の空襲で焼失しましたが、平成二十四年(2012年)に再建されました。
令和五年の正月期間の山門は、提灯などきれいに飾られていました。
本堂
昭和二十年の空襲で全焼した本堂は、昭和二十四年(1949年)に再建されました。
現在の本堂は昭和六十三年(1988年)に再建されたものです。
書院
寺務所
鐘楼堂
戦災を乗り越えて残っている鐘楼だそうです。
法蔵地蔵尊
如是我聞(かくのごとくわれきけり)碑
書家・歌人の中村素堂の碑です。
幕末の浪士隊結成ゆかりの地:処静院跡(しょじょういんあと)の石柱
伝通院の塔頭の一つ福聚院の北側にあった処静院(しょじょういん)の前に建っていました。
文久三年(1863年)に幕末の治安維持を目的とした組織である浪士隊が結成されました。
後の新撰組の前身となります。山岡鉄舟、清河八郎を中心に、
芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司などが加わりました。
尊王憂国の僧である琳瑞(りんずい)上人は処静院の僧でした。
高橋泥舟、山岡鉄舟の良き理解者でした。
慶長三年(1867年)に幕臣の子弟により暗殺されました。
徳川家の墓所
於大の方:墓所
徳川家康が今川氏や織田氏の人質となっていた時も、
我が子家康を慰め、音信を断たなかったといいます。
徳川家光正室・孝子:墓所
前関白の鷹司信房の娘でした。延宝二年(1674年)に七十四歳で亡くなりました。
千姫:墓所
千姫は江戸幕府二代将軍の徳川秀忠の娘で、慶長八年(1603年)に豊臣秀頼に嫁ぎました。
元和元年(1615年)に本多忠政の子・忠刻と再婚するも死別しました。
徳川家斉二十男と十五女:墓所
江戸幕府十一代将軍の徳川家斉の二十男である久五郎と十五女の元姫の墓所です。
家斉は男子二十六人、女子二十七人の五十三人の子女を設けました。
徳川家宣二男・家千代:墓所
江戸幕府第六代将軍の徳川家宣の二男の家千代の墓所です。
徳川吉宗二女・芳姫:墓所
江戸幕府八代将軍の徳川吉宗の二女の芳姫の墓所です。
徳川綱重・正室:墓所
江戸幕府三代将軍の徳川家光の二男の徳川綱重の正室の墓所です。
清河八郎:墓所
幕末の勤王家の清河八郎の墓所です。浪士隊の結成に参加したが、
近藤勇・土方歳三らの佐幕派と対立し、江戸に戻されました。
文久三年(1863年)に幕府方の襲撃に遭い、亡くなりました。享年三十四でした。
伝通院のご朱印
御本尊:ご朱印
江戸三十三観音霊場:第十二番札所:ご朱印
ご朱印を頂いた際、御供物を頂きました。
寺院情報
- 住所:東京都文京区小石川3-14-6
- TEL:03-3814-3701
- アクセス:東京メトロ丸ノ内線後楽園駅下車徒歩10分
都バス(錦糸町~大塚)傳通院前バス停下車徒歩1分 - HP:http://www.denzuin.or.jp/
伝通院周辺
日本指圧専門学校
伝通院の隣には浪越徳治郎氏が設立した、日本で唯一の指圧の専門学校である、
日本指圧専門学校があります。
伝通院境内:指塚
伝通院の境内には浪越氏が寄贈した指塚がありました。
(仮称)文京区児童相談所
伝通院の隣は空き地となっていましたが、
(仮称)文京区児童相談所が建設されるようです。
旧表町(おもてちょう)
慶長七年(1602年)に伝通院前表町と称して町屋が開かれたそうです。
明治二年に表町となりました。昭和三十九年までの町名です。
ご覧頂きましてありがとうございます。
江戸時代の寛永十八年(1641年)から元禄十一年(1703年)の間に、
開創されたといわれています。
明治の廃仏毀釈を経て、廃寺などで札所が入れ替わり、
昭和五十一年(1976年)に改訂されました。
『昭和新撰江戸三十三観音』と呼ばれています。