神奈川県鎌倉市:鎌倉幕府三代執権・北条泰時ゆかりの寺院:常楽寺のご朱印

木曽塚(源義高墓所):鎌倉三名鐘(かまくらさんめいしょう):常楽寺(じょうらくじ)

鎌倉幕府三代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)

北条泰時

鎌倉幕府二代執権北条義時長男として生まれました。
建仁二年(1202年)三浦義村正室に迎えました。
父と共に、鎌倉幕府有力御家人である比企能員和田義盛を討伐し、
承久三年(1221年)承久の乱では幕府軍の総大将として上洛し、
後鳥羽上皇の軍を破りました。
父・義時の死後伯母である北条政子の後見三代執権となり、
貞永元年(1232年)全五十一ヶ条からなる『御成敗式目』制定し、
武士社会に必要な法典を整備しました。
仁治三年(1242年)六十歳で亡くなりました。

清水冠者:源義高(みなもとのよしたか)

源義高

清水冠者(しみずかじゃ)号します。信濃源氏源義仲嫡男となります。
寿永二年(1183年)源義仲平家打倒兵を挙げました。
その後治承四年(1180年)に兵を挙げていた源頼朝との間で対立関係となり、
和議人質として、義高は頼朝の娘大姫婿という名目で鎌倉に向かいました。
寿永二年七月義仲平家を破り入京しますが、京を治めることができず
後白河法皇とも対立しました。
源頼朝との間で戦となり、寿永三年(1184年)宇治川の戦いで敗れ、
粟津の戦い義仲討たれました。
元暦元年(1184年)四月頼朝義高誅殺しようとしていることを知った大姫は、
密かに義高を逃がそうとしますが、になって事が露見し、頼朝兵を派遣しました。
武蔵国追手に捕らえられて、入間河原藤内光澄(とうないみつずみ)討たれました。
享年十二でした。

由緒

鎌倉幕府三代執権北条泰時は妻の母の追善供養の為、
山ノ内墳墓のかたわらに一つの梵字建立し、
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)供養の導師をつとめました。
これが常楽寺開山となります。

退耕行勇鎌倉東勝寺浄妙寺開山しました。

常楽寺と名を改める前は粟船御堂(あわふねみどう)と呼ばれ、
大船の地名『粟船』にちなむものです。

北条泰時仁治三年(1242年)六月六十歳で他界すると、
粟船御堂葬られました。

建長年間執権北条時頼によって、宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)招かれました。

退耕行勇(たいこうぎょうゆう)開山の鎌倉の寺院

退耕行勇(たいこうぎょうゆう)開山の鎌倉の寺院

鎌倉三名鐘(かまくらさんめいしょう)

宝治二年(1248年)三月二十一日藤原行家銘文を撰し、ついで鋳造されました。
現在は鎌倉国宝館寄託されています。

鎌倉建長寺北鎌倉円覚寺とともに『鎌倉三名鐘』と呼ばれています。

山門

珍しい茅葺造り山門です。

仏殿

現在の仏殿元禄四年(1691年)建立されました。

参拝時には阿弥陀三尊像鎌倉国宝館出陳中でした。

本堂

木造蘭渓道隆像本堂に安置されています。

庫裡

文殊堂

木造文殊菩薩坐像秘仏として安置されています。
毎年1月25日に行われる文殊祭にて開帳されます。

境内

静かで落ち着いた境内でした。

北条泰時墓所

墓所への階段

常楽寺より高台に北条泰時らの墓所があります。
大船むくどり公園からも墓所に入ることができます。

墓所

より大応国師(南浦紹明)中央龍淵胤和尚北条泰時墓所です。

北条泰時墓所

三代執権北条泰時仁治三年(1242年)六十歳で亡くなりました。

木曽塚:源義高墓所

源義仲の嫡男である源義高墓所といわれています。
延宝八年(1680年)に田圃の塚に埋葬されていたものを掘り出して、
塚を封じて木曽塚と称したと伝えられています。

木曽冠者義高之塚

姫宮塚

姫宮塚北条泰時墓所ですが、
源頼朝の娘源義高の許嫁である大姫墓所ともいわれています。

粟船稲荷

常楽寺のご朱印

常楽寺:ご朱印

寺院情報

  • 住所:神奈川県鎌倉市大船5-8-29
  • アクセス:JR大船駅徒歩14分

常楽寺周辺

山蒼稲荷神社(さんそういなりじんじゃ)

大正から昭和にかけて大船地域の開発の際、事故が多発したため、
稲荷神を勧請しました。

昭和九年頃現在地に移転したそうです。

令和四年・鎌倉検定会場

令和四年鎌倉検定鎌倉女子大学会場でした。
常楽寺参拝後に受験しました。おかげさまで3級に合格することができました。

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