木曽塚(源義高墓所):鎌倉三名鐘(かまくらさんめいしょう):常楽寺(じょうらくじ)
鎌倉幕府三代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)
清水冠者:源義高(みなもとのよしたか)
清水冠者(しみずかじゃ)と号します。信濃源氏の源義仲の嫡男となります。
寿永二年(1183年)に父の源義仲が平家打倒の兵を挙げました。
その後治承四年(1180年)に兵を挙げていた源頼朝との間で対立関係となり、
和議の人質として、義高は頼朝の娘・大姫の婿という名目で鎌倉に向かいました。
寿永二年七月に義仲は平家を破り入京しますが、京を治めることができず、
後白河法皇とも対立しました。
源頼朝との間で戦となり、寿永三年(1184年)の宇治川の戦いで敗れ、
粟津の戦いで義仲は討たれました。
元暦元年(1184年)四月に頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、
密かに義高を逃がそうとしますが、夜になって事が露見し、頼朝は兵を派遣しました。
武蔵国で追手に捕らえられて、入間河原で藤内光澄(とうないみつずみ)に討たれました。
享年十二でした。
由緒
鎌倉幕府三代執権の北条泰時は妻の母の追善供養の為、
山ノ内の墳墓のかたわらに一つの梵字を建立し、
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が供養の導師をつとめました。
これが常楽寺の開山となります。
常楽寺と名を改める前は粟船御堂(あわふねみどう)と呼ばれ、
大船の地名は『粟船』にちなむものです。
北条泰時は仁治三年(1242年)六月に六十歳で他界すると、
粟船御堂に葬られました。
建長年間に執権の北条時頼によって、宋僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が招かれました。
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)開山の鎌倉の寺院
東勝寺は北条泰時の開基です。
浄妙寺は足利義兼によって創建され、中興開基は足利貞氏です。
鎌倉三名鐘(かまくらさんめいしょう)
宝治二年(1248年)三月二十一日、藤原行家が銘文を撰し、ついで鋳造されました。
現在は鎌倉国宝館に寄託されています。
鎌倉の建長寺、北鎌倉の円覚寺とともに『鎌倉三名鐘』と呼ばれています。
山門
珍しい茅葺造りの山門です。
仏殿
現在の仏殿は元禄四年(1691年)に建立されました。
参拝時には阿弥陀三尊像は鎌倉国宝館に出陳中でした。
本堂
木造蘭渓道隆像は本堂に安置されています。
庫裡
文殊堂
木造文殊菩薩坐像が秘仏として安置されています。
毎年1月25日に行われる文殊祭にて開帳されます。
境内
静かで落ち着いた境内でした。
北条泰時墓所
墓所への階段
常楽寺より高台に北条泰時らの墓所があります。
大船むくどり公園からも墓所に入ることができます。
墓所
左より大応国師(南浦紹明)、中央に龍淵胤和尚、右は北条泰時の墓所です。
北条泰時墓所
三代執権の北条泰時は仁治三年(1242年)に六十歳で亡くなりました。
木曽塚:源義高墓所
源義仲の嫡男である源義高の墓所といわれています。
延宝八年(1680年)に田圃の塚に埋葬されていたものを掘り出して、
塚を封じて木曽塚と称したと伝えられています。
木曽冠者義高之塚
姫宮塚
姫宮塚は北条泰時の娘の墓所ですが、
源頼朝の娘で源義高の許嫁である大姫の墓所ともいわれています。
粟船稲荷
常楽寺のご朱印
常楽寺:ご朱印
寺院情報
- 住所:神奈川県鎌倉市大船5-8-29
- アクセス:JR大船駅徒歩14分
常楽寺周辺
山蒼稲荷神社(さんそういなりじんじゃ)
大正から昭和にかけての大船地域の開発の際、事故が多発したため、
稲荷神を勧請しました。
昭和九年頃に現在地に移転したそうです。
令和四年・鎌倉検定会場
令和四年の鎌倉検定は鎌倉女子大学が会場でした。
常楽寺参拝後に受験しました。おかげさまで3級に合格することができました。
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鎌倉幕府二代執権の北条義時の長男として生まれました。
建仁二年(1202年)に三浦義村の娘を正室に迎えました。
父と共に、鎌倉幕府有力御家人である比企能員や和田義盛を討伐し、
承久三年(1221年)の承久の乱では幕府軍の総大将として上洛し、
後鳥羽上皇の軍を破りました。
父・義時の死後、伯母である北条政子の後見で三代執権となり、
貞永元年(1232年)に全五十一ヶ条からなる『御成敗式目』を制定し、
武士社会に必要な法典を整備しました。
仁治三年(1242年)に六十歳で亡くなりました。