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白面金毛九尾の狐(きゅうびのきつね):那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)
那須与一宗隆
由緒
舒明天皇の代(629年~641年)に狩野三郎行広が白鹿を追い、
山中に温泉を発見したことにより、社が創建されました。
那須与一は平家との屋島の戦いで扇の的を射る際、
『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』と、那須温泉神社を祈願して見事に扇を射ました。
那須与一はその後那須郡の総領となり、大社殿などを寄進し、鳥居などを奉納しました。
与一が二十四歳で亡くなった後も、那須氏は代々篤く温泉神社を崇敬しました。
昭和二十年(1945年)八月一日夜半から二日朝にかけて、
那須湯本温泉街が全焼する火災が起こりました。
太平洋戦争の空襲警報が発令し、
灯火管制下で使っていた照明用のローソクの消し忘れといわれています。
戦後官民一体となって復興を果たしました。
三之鳥居(那須与一奉献)
三之鳥居は文治二年(1186年)に那須与一が奉納しました。
一之鳥居
那須街道前に鳥居があります。
二之鳥居
社殿
本殿は慶長十二年に那須資晴によって建立されました。
幣殿・拝殿は昭和六十年に竣工しました。
九尾(きゅうび)稲荷神社
白面金毛九尾の狐は、顔は白く、金色の毛並をしており、九つの尻尾を持ちます。
強大な妖力の持ち主であり、その強さは全ての妖狐の中でも最強といわれています。
日本では鳥羽天皇が寵愛した女性「玉藻前」に化け、
帝を惑わし、日本を我が物にしようとしましたが、
陰陽師に正体を見破られ、那須野が原に逃げこみました。
朝廷は九尾の狐を退治することを命じ、狐は伐たれましたが、姿を石に変え、
その怨念は毒気となり近づく人や動物の命を奪う殺生石(せっしょうせき)となりました。
室町時代に名僧・源翁(げんのう)和尚がお経を唱え、「喝っ」と杖を下ろすと、
石は粉々に砕け散り、それ以来毒気は収まり、祠に祀られました。
殺生石(せっしょうせき)
神社の後方の歩道を歩き、鳥居の先には殺生石がある賽の河原があります。
(扁額のある方の先は温泉神社の境内になります)
見立神社
御祭神は天児屋根命で、狩野三郎行広は温泉発見の功により合祀されました。
那須の五葉松
樹齢八百年で高さ十二メートルあります。那須町の天然記念物に指定されています。
御神木『生きる』
樹齢八百年、高さ十八メートルある御神木のミズナラは、『生きる』と命名されています。
愛宕神社・愛宕福神水
那須温泉神社のご朱印
温泉神社:ご朱印
九尾稲荷神社:ご朱印
神社情報
- 住所:栃木県那須郡那須町大字湯本182
- アクセス:JR黒磯駅下車関東バス那須湯本行きバス乗車那須湯本バス停下車徒歩約1分
:東北自動車道那須インターより約30分 - HP:https://nasu-yuzen.jp/
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那須与一宗隆は、那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生まれました。
十一番、十あまり一で余一と命名されました(後に与一と改名しました)
源義経の東国参陣の時に、兄の十郎為隆とともにこれに従い、
義経騎下で平家と戦いました。
為隆を除く九人の兄達が皆平家に味方し、為隆も後に罪を得た為、
十一男ながら那須氏の家督を継ぐことになりました。
与一は信濃などに逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、
下野国における那須氏発展の基礎を築きました。