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白面金毛九尾の狐(きゅうびのきつね):殺生石(せっしょうせき)
那須温泉神社の境内から歩くと、『殺生石』がありました。
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殺生石園地駐車場が入口になりますが、那須温泉神社を参拝した後、
殺生石に向かいました。
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殺生石(せっしょうせき)
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/殺生石-1-1024x689.jpg)
令和四年(2022年)に殺生石が二つに割れていることが確認されました。
数年前からひびが確認されており、自然に割れた可能性が高いと考えられます。
殺生石由緒と九尾の狐伝説
白面金毛九尾の狐は、顔は白く、金色の毛並をしており、九つの尻尾を持ちます。
強大な妖力の持ち主であり、その強さは全ての妖狐の中でも最強といわれています。
九尾の狐は鳥羽天皇が寵愛した女性「玉藻前」に化け、帝を惑わしましたが、
陰陽師の安倍泰成に正体を見破られ、那須野が原に逃げこみました。
朝廷は九尾の狐を退治することを上総広常と三浦義純に命じ、
狐を退治すると、姿を石に変え、その怨念は毒気となり、
近づく人や動物の命を奪う殺生石(せっしょうせき)となりました。
室町時代の至徳二年(1385年)に名僧・源翁(げんのう)和尚がお経を唱え、
「喝っ」と杖を下ろすと、石は粉々に砕け散り、それ以来毒気は収まりました。
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殺生石周辺
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付近一帯は硫化水素、亜硝酸ガスなどの有毒な火山ガスが絶えず噴出しており、
鳥獣が命を落とす事例が古来より知られていました。
人間ならば近づかなければ問題は無いが、小さな子どもやペットは注意が必要だそうです。
令和四年(2022年)十二月には、
殺生石近くにイノシシ八頭(成獣三頭・幼獣五頭)の死骸が見つかりました。
殺生石と松尾芭蕉
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元禄二年(1689年)に松尾芭蕉は『奥の細道』にこの地を訪れていることを記しています。
賽の河原
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/賽の河原全体-1024x738.jpg)
殺生石からは遊歩道になっています。付近は硫黄の香りが漂っていました。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/賽の河原遊歩道-1024x703.jpg)
千体地蔵
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/千体地蔵2-1024x743.jpg)
教伝地獄
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/地蔵尊2-1024x768.jpg)
教伝地獄は、享保五年(1720年)に教伝という僧を供養した地蔵が建立されました。
親不孝の戒めとして、参拝する者が後を絶たなかったといいます。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/教伝地獄の由来-1024x781.jpg)
現在の地蔵は昭和五十七年に建立されました。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/地蔵尊-1024x790.jpg)
盲蛇石(もうじゃいし)
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/盲蛇石-1024x650.jpg)
昔、五左衛門という男が盲目の大蛇と出会い、厳しい冬を越せないのを気の毒に思い、
ススキと小枝で小屋を作ってあげました。
翌春、小屋を訪れると蛇の姿はなく、輝く湯の花がありました。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/盲蛇石案内-1024x632.jpg)
湯の花の作り方は村中に広まり、人々は蛇への感謝の意を込めて、
蛇の首に似たこの石を『盲蛇石』と名付け、大切にしました。
湯の花採取場
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/湯の花採取場跡-1024x764.jpg)
『湯の花』は地表から吹き出たガスの硫黄成分が結晶したものです。
水に溶けやすいため屋根を掛け、
地表に敷きつめた赤土の上にできた湯の花を採取しました。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/湯の花採取場跡案内-1024x698.jpg)
江戸時代にはこの地域では年貢米の代わりに湯の花を納めていたことから、
貴重な資源であったことがうかがえます。
殺生石情報
- 住所:栃木県那須郡那須町大字湯本182
- アクセス:JR黒磯駅下車関東バス那須湯本行きバス乗車那須湯本バス停下車徒歩約1分
:東北自動車道那須インターより約30分
入口に殺生石園地駐車場があります。
那須温泉 鹿の湯(しかのゆ)
殺生石から那須街道を渡ってすぐの場所に那須温泉鹿の湯があります。
那須湯本温泉 鹿の湯
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/鹿の湯正面と案内石碑-1024x757.jpg)
鹿の湯は源泉掛け流しの日帰り温泉で、41度から最高48度(男湯のみ)の浴槽があります。
大人500円(令和六年現在)で入浴できます。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/鹿の湯看板拡大-1024x630.jpg)
建物は昭和十六年に改築されました。
土曜日の朝9時頃に訪れましたが、たくさんの入浴客で賑わっていました。
鹿の湯由緒
舒明天皇の代(629年~641年)に狩野三郎行広が白鹿を追い、山中に温泉を発見しました。
そこで鹿によって発見された『鹿の湯』と名づけたと伝えられます。
聖武天皇の御世である天平十年(738年)に正倉院文書のなかに、
那須温泉の記録が残されています。
江戸時代には、江戸在府の大名はしばしば那須温泉に湯治に出かけており、
正保二年(1645年)に盛岡城主・阿部対馬守より将軍家に出された湯治願が残されています。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/鹿の湯案内-1024x658.jpg)
湯川
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/湯川2-1024x752.jpg)
鹿の湯の建物のそばにある湯川の上流には湯本温泉源があります。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/湯本温泉源案内-1024x768.jpg)
周辺は硫黄の香りがツーンと鼻孔をくすぐります。
お初新道
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/お初新道-1024x724.jpg)
戦前までは、湯治客が各旅館から「鹿の湯」に毎日通って入浴していました。
その近道を私財を投じて、困難な崖地を切り開いて道を作り、湯治客の便を図りました。
その人の名をとり『お初新道』と呼ばれています。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/お初新道案内-1024x624.jpg)
湯の素採取場
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/湯の素採取場-1024x757.jpg)
お初新道を下りると、湯の素採取場があります。三ヶ月に一度硫黄が採取され、
湯の素小屋にて乾燥させたものが、鹿の湯の窓口で販売されています。
![](https://sansen-do.jp/wp-content/uploads/2024/05/湯の素採取場案内-1024x644.jpg)
鹿の湯情報
- 住所:栃木県那須郡那須町湯本181
- アクセス:JR黒磯駅下車関東バス那須湯本行きバス乗車那須湯本バス停下車徒歩約2分
:東北自動車道那須インターより約30分 - HP:http://www.shikanoyu.jp/
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