戊辰戦争・新政府軍本陣:流山浅間神社(ながれやませんげんじんじゃ)
富士塚
流山富士(ながれやまふじ)
明治二十二年(1889年)に、醬油醸造の浅見家の五代目当主・浅見平兵衛萬蔵により、
富士山の溶岩を用いて、社殿の裏側に富士塚が造成されました。
富士山から切り出した「ボク石」を組み込んで築いています。
富士塚を維持管理するのための入山料100円を払い登拝しました。
二合目など石碑があります。岩が尖っているので気を付けて登りました。
富士塚の高さは約6メートルあるそうです。
富士塚の頂上からの眺めです。
富士塚頂上の石碑は、「富士浅間大神」と書かれ、高さ2メートルあります。
明治十九年(1886年)に築造されました。
境内
戊辰戦争では境内に新政府軍本陣があったそうです。
近くには新選組流山本陣跡があります。
毎年七月上旬の土日には浅間神社大祭が行われます。
社殿裏の現在富士塚のある場所に、新政府軍の本陣があったそうです。
新選組流山本陣跡
流山浅間神社の近くには、
局長・近藤勇、副長・土方歳三で有名な新選組の流山本陣跡があります。
本陣跡に建つ「秋元家住宅土蔵」は現在修復中でした。
近藤勇らは「丹後の渡し」から流山に入ったと推測され、
酒造業を営む鴻池「永岡三郎兵衛宅」に陣を構えました。
新政府軍に包囲された大久保大和(近藤勇の改名)は徳川家の鎮撫隊を主張するため出頭し、
事情説明のため「矢河原の渡し」から出立しましたが、
板橋宿に連行され、近藤勇であることが露見し、捕らえられ、板橋で処刑されました。
由緒
醬油醸造の浅見家の初代当主によって、正保元年(1644年)に創建されました。
安政四年(1856年)にの台風によって倒壊後、
浅見家五代目当主・浅見平兵衛萬蔵によって再建されました。
神社の近くには「紙屋平兵衛」「浅見平兵衛」の名が書かれた鬼瓦の石碑がありました。
社殿
流山浅間神社のご朱印
令和六年拝受:ご朱印
社務所は無人でした。ご朱印は神社の前にある『木村印舗』さんで頂きました。
富士塚を登拝しましたので、「登頂記念」の印を頂きました。
神社情報
- 住所:千葉県流山市流山1-154
- アクセス:流鉄流山駅徒歩約3分
流鉄(りゅうてつ)流山駅周辺
流鉄流山駅
大正五年(1916年)に建築された駅舎で、その後何度か修理や改築されたようです。
流鉄は大正二年(1913年)に、流山名産の醤油やみりんの輸送を目的として、
流山町民116名の出資により、流山軽便鉄道として設立されました。
平成二十八年(2016年)に流鉄は開業百周年を迎えました。
流鉄の車両
流鉄にはカラフルな車両がたくさんありました。
『令和6年6月6日記念号』です。
『流鉄若葉号』です。
『流鉄あかぎ号』です。
閻魔堂(えんまどう)
近藤勇陣屋跡のそばに閻魔堂(えんまどう)がありました。
江戸時代建立の閻魔大王を安置するお堂です。安永五年(1776年)に創建されました。
閻魔堂:義賊・金子市之丞(かねこいちのじょう)墓所
義賊として有名な金子市之丞の墓所がありました。
講談の『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』で有名です。
国登録有形文化財:呉服新川屋店舗
流山広小路沿いにある『呉服新川屋店舗』は国の登録有形文化財に指定されています。
呉服新川屋は弘化三年(1846年)の創業で、建物は明治二十三年(1890年)に建てられました。
北側には「恵比須」、南側には「大黒」の鬼瓦がありました。
説明板を眺めていると、親切な女将さんに声をかけられ、
店内で色々とお話を伺うことができました。
ましや土蔵
諏訪道沿いにある古い土蔵は『呉服ましや土蔵』で、
明治三年(1870年)に上棟されたそうです。
呉服店ましや(増屋)は江戸時代末期の安政六年(1859年)創業で、
以前は酒造業を営んでいたそうです。
流鉄流山駅までのアクセス
流鉄幸谷駅(こうやえき)
行きはJR常磐線・武蔵野線新松戸駅で乗り換え、幸谷(こうや)駅から流鉄に乗りました。
鉄道むすめ「幸谷なのは」が迎えてくれました。
馬橋(まばし)駅
流鉄馬橋駅でJR常磐線に乗り換えができます。
JR馬橋駅ホームから見た流鉄馬橋駅ホームです。
JR常磐線との乗り換え改札には馬橋駅の古い表示看板がありました。
ご覧頂きましてありがとうございます。
富士信仰に基づいて、富士山に模して造られた山や塚のことです。
江戸時代に始まったもので、特に関東地方の神社に多く見られます。
既に存在する丘や古墳を転用して富士山に見立てたものや、
富士山の溶岩を積み上げたものがあります。
浅間神社の境内にあり、富士塚の山頂にも浅間神社奥宮が設けられています。