Contents
- 1 出世の階段:江戸城無血開城会談の地:愛宕神社(あたごじんじゃ)
- 1.0.1 愛宕山(あたごやま)
- 1.0.2 由緒
- 1.0.3 大鳥居
- 1.0.4 一の鳥居
- 1.0.5 令和六年三月参拝時:一の鳥居
- 1.0.6 出世の階段(男坂)
- 1.0.7 間垣平九郎の故事
- 1.0.8 明治・大正・昭和時代にも騎馬で上下したエピソードがありました
- 1.0.9 将軍梅
- 1.0.10 丹塗りの門
- 1.0.11 社殿
- 1.0.12 桜田烈士愛宕山遺跡碑
- 1.0.13 殉皇十二烈士女之碑
- 1.0.14 摂社:太郎坊神社
- 1.0.15 摂社:福寿稲荷社
- 1.0.16 摂社:恵比寿大黒社
- 1.0.17 江戸城無血開城会談の地・パネル
- 1.0.18 西参道階段(愛宕トンネル)
- 1.0.19 平成十八年参拝時:境内
- 1.0.20 令和六年三月参拝時:境内の池
- 1.0.21 令和六年三月参拝時:女坂(おんなざか)
- 2 愛宕神社のご朱印
- 3 神社情報
出世の階段:江戸城無血開城会談の地:愛宕神社(あたごじんじゃ)
愛宕山(あたごやま)
標高26mの愛宕山の山頂に愛宕神社はあります。
由緒
慶長八年(1603年)に徳川家康の命によって防火の神様として創建されました。
社殿など江戸幕府の寄進により建立されましたが、
江戸の大火により全焼しました。
明治十年(1877年)に本殿、幣殿・拝殿、社務所が再建されました。
その後関東大震災や東京大空襲などで社殿は焼失しましたが、
昭和三十三年に氏子中の寄進により再建されました。
大鳥居
一の鳥居
令和六年三月参拝時:一の鳥居
令和六年三月の参拝時には、周辺に高層ビルが建っていました。
虎ノ門ヒルズが高くそびえていました。
出世の階段(男坂)
愛宕神社の名物『出世の階段』です。
間垣平九郎の故事
江戸時代の寛永十一年(1634年)に父・徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、
江戸幕府三代将軍の徳川家光は、山上に梅が咲いているのを見て、
家臣に、『馬に乗って梅の枝を取るものはいないか』と尋ねたところ、
讃岐丸亀藩藩士の間垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がり、枝を取ることに成功しました。
その名は馬術の名人として全国にその名を轟かせたといわれています。
階段は86段あり、角度は約40度の急勾配です。
明治・大正・昭和時代にも騎馬で上下したエピソードがありました
明治十五年に宮城県人強心流馬術師、石川清馬が騎馬で上下しました。
大正十四年に参謀本部の岩木利夫が、入部以来手塩にかけた愛馬が、
近く廃馬として民間の手に渡るのを痛く惜しみ、東京帝国大学乗馬倶楽部の遠乗の際、
騎馬で上下し、皇国馬術の妙技を披露しました。
昭和五十六年に渡辺隆馬氏が、史実に挑戦し、無事登頂しました。
将軍梅
間垣平九郎が手折り、徳川家光に献上された梅といわれています。
丹塗りの門
社殿の前には丹塗りの門がありました。
社殿
桜田烈士愛宕山遺跡碑
万延元年三月三日、江戸幕府大老の井伊直弼を暗殺した『桜田門外の変』の際、
愛宕神社は水戸浪士の待ち合わせ場所でした。
殉皇十二烈士女之碑
昭和二十年八月十五日の玉音放送の後に起きた『愛宕山事件』の慰霊碑だそうです。
摂社:太郎坊神社
摂社:福寿稲荷社
摂社:恵比寿大黒社
江戸城無血開城会談の地・パネル
明治元年に官軍の江戸城総攻撃の直前に、幕府軍の勝海舟が、
官軍の西郷隆盛を誘い愛宕山に登り、眼下に見える江戸が灰燼に帰すのを憂い、
無血開城へとつながった場所です。調印は三田薩摩藩屋敷で行われました。
西参道階段(愛宕トンネル)
愛宕トンネルのそばには、西参道階段があります。
東京メトロ日比谷線神谷町駅からはこちらが便利でした。
出世の階段までは無いにせよ、愛宕山を登る為、階段を登るのはなかなか大変でした。
西参道階段を登ると、愛宕神社の入口があります。
平成十八年参拝時:境内
都会の中とは思えない自然豊かな環境です。
猫もぐっすり眠っていました。
令和六年三月参拝時:境内の池
現在境内の整備事業が行われていて、明るくきれいになっていました。
池の鯉は工事が終わるまでお引越し中だそうです。
龍神様の滝も工事中です。
社務所もきれいになっていました。
令和六年三月参拝時:女坂(おんなざか)
令和六年三月の参拝時は、女坂は工事中の為、通行止めでした。
愛宕神社のご朱印
平成十八年拝受:ご朱印
令和六年三月拝受:ご朱印
神社情報
- 住所:東京都港区愛宕1-5-3
- アクセス:東京メトロ日比谷線神谷町駅徒歩5分
東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅徒歩5分 - HP:https://www.atago-jinja.com/
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