武田家菩提寺:柳沢吉保夫妻墓所:恵林寺(えりんじ)
武田信玄公墓所特別公開
毎月12日の武田信玄公月命日は墓所が特別公開されます。
令和五年8月12日参拝時:武田信玄公墓所
武田信玄は元亀四年(1573年)4月12日に病のため、
信州・駒場の陣中で五十三歳で亡くなりました。
墓は明王殿の裏手にあり、五輪塔・宝篋印塔ともに寛文十二年(1672年)4月12日、
信玄公百回忌が厳修された際に建立されました。
武田信玄の墓所は、山梨県甲府市岩窪にもあります。
由緒
鎌倉時代の元徳二年(1330年)に、甲斐牧ノ庄の地頭職をつとめていた二階堂出羽守貞藤が、
夢窓国師を招き、自邸を禅院として創建しました。
武田信玄の尊崇を受けた快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、
永禄七年(1564年)に信玄自ら寺領を寄進し、菩提寺と定めました。
天正四年(1576年)に遺言通り三年間の秘喪の後、武田勝頼は快川国師の導師のもと、
父・信玄の葬儀を盛大に行いましたが、勝頼は天正十年(1582年)三月に天目山で自刃、
甲斐武田家は滅亡しました。
四月には織田信長の焼き討ちに遭い、快川国師は、
『安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し』
という言葉を残し、百人以上ともいわれる僧とともに火に包まれました。
その後徳川家康により末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)を招き、再建され、
江戸幕府五代将軍の徳川綱吉の時代に甲府藩主となった柳沢吉保の庇護で寺運は発展し、
吉保夫妻は恵林寺を菩提寺として霊廟をもうけました。
総門(黒門)と増上寺燈籠
総門の前には増上寺に奉納されていた燈籠がありました。
江戸幕府六代将軍徳川家宣の法名である『文昭院』と書かれていました。
国指定重要文化財:四脚門(赤門)
総門から参道を歩くと国指定重要文化財の四脚門(赤門)があります。
慶長十一年(1606年)に徳川家康によって再建されたといわれています。
『乾徳山』という額が掲げられています。
境内から見た四脚門(赤門)の裏側になります。
三門
三門では快川国師ら百名余りの僧が立て籠り、織田信長勢によって火攻めに遭いました。
『三門』は涅槃に入るための三解脱門を意味しています。
開山堂
三門をくぐって正面に見えるのは開山堂です。
夢窓疎石、快川紹喜、末宗瑞曷の三像が堂内に安置されています。
大庫裡
門をくぐると大庫裡があります。
明治三十八年の火災で焼失後、本堂とともに、明治末期に再建されました。
庫裡の鬼瓦が展示されていました。
方丈庭園側の門
開山堂の横に方丈庭園に入る門がありましたが閉ざされていました。
武田不動尊
参道の奥に武田不動尊を祀る明王殿があります。武田信玄が生前に対面で模刻させたという、
等身大の不動明王が安置されています。
恵林寺庭園
京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)とともに、
夢窓国師の代表的な築庭庭園として有名です。
うぐいす廊下入口
外部侵入者の危険探知のために設けられたうぐいす張りの廊下の入口です。
柳沢吉保公霊廟
木造彩色の柳沢吉保坐像が納められています。
吉保自筆の納め状によると、正徳元年(1711年)に製作され、奉納されました。
柳沢吉保夫妻墓所
はじめは甲府岩窪の永慶寺と真光院に建立されていたものを、
享保九年(1724年)に嫡男の甲斐守吉里が奈良の大和郡山に転封される際、
恵林寺に改葬されました。
永慶寺は廃寺となりましたが、跡地に山梨懸護国神社が建ち、
境内に永慶寺跡の石碑がありました。
宝仏舎利宝塔
境内には三重塔がありました。納骨堂となっているようです。
武田信玄公訓言・石碑
石碑には、『およそ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す。
その故は五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故、
たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり』と書かれています。
武田信玄公宝物館
宝物館は昭和四十四年にオープンしました。
太刀や甲冑、孫子の旗(風林火山の旗)などが公開されていました。
観桜の詠歌
見事に咲き競う三門両袖の桜に見惚れて武田信玄が詠んだ歌の石碑です。
恵林寺のご朱印
令和五年拝受:御朱印帳
令和五年拝受:ご朱印
令和五年拝受:武田不動尊・ご朱印
令和五年拝受:八月特別朱印
八月の特別ご朱印、
禅語『火裏(かり)に清泉(せいせん)を酌(く)む(燃え盛る炎の中から清らかな水を汲み出す)』を頂きました。
寺院情報
- 住所:山梨県甲州市塩山小屋敷2280
- アクセス:JR塩山駅から西沢渓谷行バス恵林寺下車・JR塩山駅からタクシーで20分
- HP:https://erinji.jp/
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