Contents
- 1 出世城:浜松城(はままつじょう)
- 1.0.1 由緒
- 1.0.2 天守閣から見た三方ヶ原古戦場方面
- 1.0.3 天守閣
- 1.0.4 天守閣内・徳川秀忠の鎧
- 1.0.5 天守台
- 1.0.6 八幡台
- 1.0.7 天守門(てんしゅもん)
- 1.0.8 天守門からの眺め
- 1.0.9 天守門内部
- 1.0.10 天守門内の骨組
- 1.0.11 天守門の礎石
- 1.0.12 天守門下の排水溝
- 1.0.13 天守曲輪(てんしゅくるわ)
- 1.0.14 天守曲輪:新たに発見された櫓跡
- 1.0.15 天守曲輪の石塁と土塁
- 1.0.16 鉄門(くろがねもん)
- 1.0.17 富士見櫓跡
- 1.0.18 搦手筋(からめてすじ)と埋(うずめ)門
- 1.0.19 本丸跡
- 1.0.20 二の丸跡
- 1.0.21 新たに発見された石垣
- 1.0.22 若き日の徳川家康公銅像
- 1.0.23 日本庭園
- 1.0.24 稲荷神社
- 2 浜松城の御城印
- 3 浜松城情報
出世城:浜松城(はままつじょう)
由緒
前身は引馬城で現在の元城町東照宮付近にあたります。
元亀元年(1570年)に徳川家康が入城し、浜松城と名が改められました。
引馬の名が『馬を引く』つまり敗北を意味することから、
かつてこの地にあった荘園(浜松荘)から地名と城名を『浜松』と改めました。
城の普請は天正五年~十年(1577年~1582年)に行われました。
家康は天正十四年(1586年)に駿府に移るまでの十七年間、浜松城を居城としました。
その間の、『姉川の戦い』、『三方ヶ原の戦い』、『高天神城の攻略』、
『小牧・長久手の戦い』を浜松城で過ごしました。
その後天正十八年(1590年)からは、
豊臣秀吉の家臣の堀尾吉晴と次男の堀尾忠氏が、合わせて十一年間在城しました。
堀尾忠氏は関ヶ原の戦いの功績で出雲に移封し、
以後は譜代大名が次々と入りました。在城中に兼任も含めて、
老中五人、大坂城代二人、京都所司代二人、寺社奉行四人を輩出し、
『出世城』と呼ばれるようになりました。
天守閣から見た三方ヶ原古戦場方面
三方ヶ原の戦いは、元亀三年(1572年)に起きた、武田信玄と徳川家康との戦いで、
家康が討死寸前まで追い詰められた、生涯最大の敗戦といわれています。
家臣の夏目広次らを身代わりにして、浜松城に逃げ帰った家康は、
全ての城門を開き、かがり火を焚いて、いわゆる『空城(くうじょう)の計』を行いました。
浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は警戒し、兵を引き上げたといわれています。
天守閣
現在の天守閣は昭和三十三年(1958年)に鉄筋コンクリート造で再建されました。
17世紀の絵図には天守が描かれていないことから、
江戸時代前期には天守が失われていたと考えられます。
天守閣内部は資料館になっています。
天守閣内・徳川秀忠の鎧
江戸幕府二代将軍の徳川秀忠は浜松で生まれました。
天守台
天守台は一辺二十一メートルのややいびつな四角形をしていて、
西側に『八幡台』と呼ばれる突出部がついています。
東側には付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、
現在は天守閣の入口になっています。
八幡台
天守閣から見た八幡台です。
天守門(てんしゅもん)
天守曲輪(てんしゅくるわ)入口の天守門は、明治六年(1873年)に解体されましたが、
平成二十六年(2014年)に木造で復元されました。
櫓が石垣上の両側に伸びる『渡櫓(わたりやぐら)』となっています。
天守門からの眺め
浜松出世パーク「葵広場」が見えます。
天守門内部
天守門内には石落としがありました。
天守門内の骨組
天守門の骨組は太い木材が組み合わさっており、天井板はありません。
天守門の瓦も、浜松城から出土した瓦片のデザインを参考に復元されています。
天守門の礎石
平成二十一年から天守門跡の発掘調査を行い、礎石の抜取穴二箇所が発見され、
門柱の配置や門扉の大きさが確認されました。
天守門下の排水溝
平成二十一年からの発掘調査で、門下に瓦を用いた排水溝が発見されました。
排水溝は南側の石垣に沿って配列されています。
天守曲輪(てんしゅくるわ)
天守台周辺には本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれています。
天守曲輪は掛川城や和歌山城等にも見られますが、珍しいようです。
天守曲輪:新たに発見された櫓跡
平成三十年(2018年)の発掘調査で、天守曲輪南東角の石塁幅が広く、
階段が付属していることが判明しました。
出土した瓦の製作技法や文様などの特徴は、堀尾氏在城期のものと考えられ、
瓦葺きの櫓が存在していた可能性が高まりました。
江戸時代の絵図には建物が描かれていないため、
江戸時代の早い段階には失われていたと推定されます。
天守曲輪の石塁と土塁
平成三十年(2018年)の発掘調査で、
天守曲輪南側の内部に石垣が存在していることが明らかになりました。
鉄門(くろがねもん)
鉄門は本丸への正面出入口として重要な門でした。
明治五年(1872年)まで存在していましたが、払下げ等により失われています。
富士見櫓跡
天守閣から富士見櫓跡が見えます。
搦手筋(からめてすじ)と埋(うずめ)門
浜松城の天守曲輪には、天守門を通る大手筋(表通路)と、
埋門を通る搦手筋(からめてすじ:裏通路)があります。
搦手筋は日常管理や有事の際の脱出経路として設定されました。
埋門は石垣の合間に埋まるような構造をした門でした。
本丸跡
二の丸跡
二の丸は本丸の東側に位置し、土地も一段低く、広さがおよそ4950㎡(約1500坪)で、
城主の居館がありました。
新たに発見された石垣
平成二十六年(2014年)に行った発掘調査により発見されました。
天守台と同様に自然石を利用して積み上げた野面積みです。
堀尾吉晴在城期とされる遺構と考えられます。
若き日の徳川家康公銅像
日本庭園
稲荷神社
天守門をくぐった右側にあります。
浜松城の御城印
御城印
天守閣内の売店で購入しました。日付は空白でしたので、自分で書き入れました。
浜松城情報
- 住所:浜松市中区元城町100-2
- アクセス:JR浜松駅下車バス乗車「市役所前」下車徒歩6分
- HP:https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/
ご覧頂きましてありがとうございます。