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目白御殿と目白台運動公園
目白駅から目白通り沿いに江戸川橋に向けて歩くと、
日本女子大学の隣に、『文京区立目白台運動公園』があります。
かつては『目白御殿』と呼ばれた田中角栄元首相の屋敷の庭園でした。
田中角栄(たなかかくえい)
平成二十一年(2009年)の朝日新聞が実施した、
『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査調査』では、
人物の分野で三位以下を大きく引き離す二位でした(一位は昭和天皇でした)
田中角栄邸
田中邸は約8000㎡の敷地がありましたが、田中角栄氏の死去後、
約65億円の相続税の支払いの為、約5000㎡の庭は国に物納されました。
文京区では隣接していた国家公務員共済組合連合会(KKR)の目白台運動場も取得し、
新たに『文京区立目白台運動公園』として平成二十一年(2009年)に誕生しました。
表札には「田中」と書かれています。
現在は田中角栄氏の娘・真紀子氏ら家族の自宅となっています。
田中角栄氏が率いた田中派木曜クラブは、
自由民主党の中で最大118名を誇る最大派閥となりました。
田中邸の門はかつては多くの支持者や国会議員、新聞記者などがくぐったのです。
目白台運動公園駐車場から見た田中邸です。緑が多く自然豊かです。
田中邸の前には日本女子大学成瀬記念館がありました。
目白台運動公園
目白台運動公園入口
目白台運動公園の入口です。多目的広場やテニスコート、
フットサルコート、ドッグランが併設されています。
芝生広場
公園のパークセンター2Fは展望室になっており、公園全体を眺めることができます。
西側は芝生広場と駐車場になっています。家族連れがピクニックを楽しんでいました。
多目的広場
東側は多目的広場になっています。野球なら二面、サッカーなら一面取れる広さです。
ここがかつての国家公務員共済組合連合会(KKR)の目白台運動場になるのでしょうか。
噴水池
わんわん広場
文京区立目白台運動公園情報
- 住所:東京都文京区目白台1-19・20
- アクセス:JR目白駅徒歩約20分・東京メトロ副都心線雑司が谷駅徒歩約10分
東京メトロ有楽町線江戸川橋駅徒歩約15分 - HP:https://www.mejirodaipark.jp/
田中角栄邸・目白台運動公園周辺
目白通り
目白の田中角栄邸から新潟県西山町(現・柏崎市)の田中角栄氏の実家まで、
わずか三回曲がるだけで到着するという伝説があります。
西早稲田から目白通りまで
環状四号線道路予定地
西早稲田にある水稲荷神社を参拝した後、
現在の田中角栄邸の様子を見に行くことを思い立ち、
環状四号線の道路予定地を横目に目白台まで歩きました。
都電荒川線:面影橋~早稲田間
水稲荷神社、甘泉園公園裏門から交差点を渡ります。
都電荒川線が都電早稲田駅に向けて走っていました。
神田川は仲之橋を渡りました。高田一丁目を目白台に向けて歩きます。
豊川浴泉(とよかわよくせん)
豊川浴泉という銭湯がありました。昭和二十五年(1950年)創業だそうです。
かつての町名の高田豊川町からとられたそうです。
小布施坂(こぶせざか)
目白通りへは小布施坂という坂を登ってきました。
隣には「文京区目白台一丁目遊び場」という公園がありました。
環状四号線の計画では、目白台への坂道から不忍通りの出口は地下トンネルになるそうです。
江戸時代に鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、
その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、
宝暦十一年(1761年)に新道として開きました。
坂の名は明治時代に株式の仲買で財を成した、
小布施新三郎(おぶせしんざぶろう)という人の屋敷が一帯にあった為、
その名前がとられたそうです。
鳳山酒店(ほうざんさけてん)
目白通り沿いで、富士見坂・日無坂に入る角に味のある木造建築の酒屋がありました。
大正時代の建築だそうです。
富士見坂・日無坂
左側が日無坂で右側が富士見坂です。豊島区高田と文京区目白台の区境となります。
富士見坂から新宿副都心が良く見えます。
富士見坂下
富士見坂を下から見ると、かなりの急坂だというのが分かります。
豊島区立山吹の里公園
都電荒川線早稲田駅へ戻る途中に、豊島区立山吹の里公園がありました。
『山吹の里』は戦国時代初期の武将の太田道灌(おおたどうかん)の故事にゆかりの地です。
『七重八重』の歌碑がありました。
“七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき”という兼明親王の詠んだ歌が、
書かれています。『山吹の里』の故事に出てきた詩です。
都電荒川線早稲田駅
山吹の里公園から神田川に掛かる豊橋を渡ると都電荒川線早稲田駅があります。
ご覧頂きましてありがとうございます。
大正四年(1918年)に現在の新潟県柏崎市に生まれました。
自由民主党の最大派閥田中派を率いて、第六十四代・六十五代内閣総理大臣となり、
日本列島改造論を基に、様々な政策を実行しました。
その知識と実行力から「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれ、
外交でも日中国交正常化を実現させました。
昭和四十九年(1974年)に金脈問題で退陣するも、
その影響力から「影の総理」と呼ばれました。
昭和六十年(1985年)に脳梗塞で倒れ入院。
言語障害が残るなど政治活動が出来なくなり、平成二年(1990年)に政界を引退しました。
平成五年(1993年)に七十五歳で亡くなりました。