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長野一本槍・上泉(かみいずみ)伊勢守信綱:箕輪城(みのわじょう)
箕輪城は、箕輪長野氏、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏が歴代の城主でしたが、
箕輪衆の総帥である長野業政(ながのなりまさ)が有名です。
長野業政(ながのなりまさ)
上泉(かみいずみ)伊勢守信綱
永正五年(1508年)生まれの剣豪で、新陰流の祖です。
赤城山麓に所在した大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族の上泉氏の出身で、
箕輪城の長野氏に仕えました。
『上野国一本槍』の感状を長野業政からもらったといわれています。
長野氏滅亡後は武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄からの偏諱授与により、
諱(いみな)を信綱に改めたという逸話があります。
箕輪城落城後、新陰流を普及させるため、
門弟とともに諸国流浪の旅に出たと伝えられます。
天正五年(1577年)に亡くなったといわれています。
由緒
永正九年(1512年)に長野業尚(なりひさ)によって築かれたとも、
大永六年(1526年)に長野業尚の子の信業によって築かれたという説があります。
上野の地は、永禄元年(1558年)に関東管領の上杉憲政が越後に逃れると、
相模の北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信が侵攻を繰り返しました。
永禄九年(1566年)に武田信玄は箕輪城に総攻撃を仕掛け、
城主の長野業盛は自刃して果てました。
その後箕輪城は武田氏の有力家臣が城代に任ぜられ、武田氏滅亡後は、
織田信長の家臣の滝川一益が接収し、武田氏に任ぜられた城代の内藤昌月がこれに従いました。
本能寺の変で織田信長が倒れると、北条氏政とその子・氏直の大軍が侵攻し、
北条氏邦が箕輪城へ入城しました。
天正十八年(1590年)に豊臣秀吉の小田原侵攻後、箕輪城は開城し、
徳川家康が関東に入封(にゅうほう)後、十二万石を持って井伊直政に与えられました。
慶長三年(1598年)に井伊直政は高崎城に移封(いほう)され、箕輪城は廃城になりました。
箕輪城周辺
史跡箕輪城跡駐車場に車を止めました。御城印や武将印は、
毎週日曜日に開催される箕輪城ふれあい市(10時~14時)で販売されています。
周辺は住宅街でした。
箕輪城跡案内図
搦手口(からめてぐち)
『史跡箕輪城跡駐車場』から城に向かうと搦手口がありました。
長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から大手口であったと考えられ、
城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南方に設けられ、
ここが搦手口になったといわれています。
二の丸
二の丸は縦横各八十メートル程の郭(くるわ)で、出撃の拠点になります。
東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へ、
四方へ出撃できるようになっています。
本丸
本丸は御前曲輪とともに城の中心部です。南北約百メートル、東西約七十メートルあり、
東側には高い土手が築いてあり、城内が敵に見えないようにしてあります。
本丸門馬出し
東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、
土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃します。
本丸・蔵屋敷間木橋
平成十七年の発掘調査によって、本丸西側の本丸西虎口と蔵屋敷の間の空堀の底で、
木橋の橋脚の礎石がそのままの場所で2石発見され、
木橋が存在していたことが分かりました。
箕輪城の移城先の高崎城の本丸にかかる橋の絵図を参考にして、
令和四年三月に当時の意匠を取り入れた木橋として完成しました。
蔵屋敷
木橋の先には蔵屋敷の跡があります。
郭馬出
二の丸から南側へ進むと郭馬出があります。
五十メートル×三十メートル程の郭で、回りに土手を設け、
外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の西側から一挙に打って出る所です。
郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)
平成十四年(2002年)の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口(虎口)部分で、
井伊氏の時代の城門の柱の礎石が八石確認されました。
箕輪城門の中では最大規模を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであったと想定されます。
平成二十八年(2016年)に伝統的工法で復元されました。
礎石の配置から、一階建てになることの多い四本柱や六本柱ではなく、
二階建ての櫓門であると推定されました。
郭馬出西虎口門から見た大堀切です。堀の深さがわかります。
木俣(きまた)
通路が二俣(ふたまた)、三俣(みつまた)のように五つの方向にわかれるのを木俣といいます。
南側にある木俣から見た、郭馬出西虎口門です。
木俣から南側に見える高崎市内の眺めです。
木俣は家臣団の屋敷地の一つと思われます。
発掘調査では、等間隔(180センチ)で柱穴の並ぶ箇所があり、
少なくとも三棟の掘立柱建物があったことが明らかになりました。
大堀切と土橋
この大堀切によって城は南北二つに区切られ、中央にある土橋一つで連絡されています。
大堀切は階段で下りることができます。
大堀切から見た土橋です。
平成二十六年(2014年)に土橋の形状に復元されました。
箕輪城の御城印
御城印と武将印は毎週日曜日に史跡箕輪城跡駐車場で開催されます、
箕輪城ふれあい市(10時~14時)で購入しました。
箕輪城・御城印
上泉伊勢守・武将印
『懸待表裏は一隅を守らず』とは、新陰流の極意ともいえる代表的な考え方です。
斬りあいは相対的なもので、
攻めや守り一辺倒では万全の勝ちは得られないことを見抜いた上泉伊勢守は、
力と速さを頼りに自分の得意技で勝つという当時の考え方を大きく打ち破って、
新陰流を生みだしました。
箕輪城の情報
- 住所:群馬県高崎市箕郷町東明屋588(箕輪城跡駐車場)
- アクセス:関越自動車道高崎IC・前橋ICから車で約30分
JR高崎線高崎駅より伊香保案内所行きバス乗車竜門寺バス停下車徒歩約8分
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業正(なりまさ)とも書きます。延徳三年(1491年)に生まれました。
長野氏は上野西部の豪族で、関東管領・山内上杉氏に属する勢力で、
周囲の豪族・国人を取りまとめており、その集団は箕輪衆と呼ばれています。
天文十六年(1547年)に、信濃国志賀城主・笠原清繁のへの救援に出ようとする、
主君の上杉憲政を諫めたが聞き入れられず、長野業正が参加しなかった小田井原の戦いで、上杉憲政は武田信玄に敗れました。
このころから主君との関係は微妙であったとみられます。
天文二十年(1551年)に上杉憲政が越後に逃れた後も、
上杉家に義理を立て北条氏に従わず、
翌年に長尾景虎(後の上杉謙信)が上野に援軍として来るまで持ちこたえたといいます。
武田信玄の六次に渡る侵攻を全て撃退したといわれています。
永禄四年(1561年)に病死しますが、
『私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。
敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。
運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたものはない』
という遺言を残しました。享年七十一とも六十三ともいわれています。