肥後熊本藩下屋敷跡:忠臣蔵:赤穂義士(赤穂浪士)大石良雄外十六人忠烈の跡・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)終焉の地
赤穂事件
大石内蔵助自刃の跡・石碑
東海大学付属高輪台高等学校・中等部の近くにあり、
都営高輪一丁目アパートのそばに『大石良雄自刃の跡』という石碑があります。

大石内蔵助良雄ほか16人は、元禄十六年(1703年)の2月4日に切腹しました。

大石良雄(おおいしよしたか)外十六人忠烈(ちゅうれつ)の跡

この地は、赤穂事件で大石内蔵助ら17人が預けられた肥後熊本藩の下屋敷です。
熊本藩五代藩主の細川綱利は、老中の稲葉丹後守からのお預けの命を受けると、
大目付の仙谷伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り、引渡しを受けました。
大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、
上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。
細川家は大藩の威厳と見識をもって優遇し、
赤穂義士(赤穂浪士)が預けられた四つの藩の中で、即日引見したのは細川家だけでした。

赤穂義士(赤穂浪士)の墓所のある泉岳寺の裏手にあたります。

切腹の地:熊本藩主細川家下屋敷・庭園跡

非公開の為、鍵がかかっていますが、扉から庭の一部を見ることができます。

細川家下屋敷であった土地が当主・細川綱利の命で幕末まで保存されてきました。
その後皇室の地になり、明治天皇の一言で切腹の地は保たれ、
昭和三十二年に財団法人中央義士会が管理することになりました。
旧細川邸のシイ

樹高10.8メートルの巨樹は、肥後熊本藩下屋敷跡に残ります。

高輪皇族邸

肥後熊本藩下屋敷の土地はその後皇室の所有となり、現在は高輪皇族邸となっています。

上皇上皇后陛下の高輪仙洞仮御所への御移居を奉迎し、
ねむのきの庭の「プリンセス・ミチコ」が移植されました。

大石良雄外十六人忠烈の跡情報
- 住所:東京都港区高輪1-4-6
- アクセス:都営浅草線泉岳寺駅徒歩10分
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)終焉の地
浅野内匠頭終焉の地・田村右京太夫建顕(たむらうきょうだゆうたつあき)の屋敷跡
新橋四丁目交差点そばに『浅野内匠頭終焉の地』と書かれた石碑があります。
(屋敷跡から五十メートル離れた場所にあります)

浅野内匠頭は江戸城松の廊下刃傷事件の後、
一関藩主の田村右京太夫建顕(たむらうきょうだゆうたつあき)の屋敷に預けられ、
元禄十四年三月十四日に切腹しました。
浅野内匠頭終焉の地情報
- 住所:東京都港区新橋4-31
- アクセス:JR新橋駅烏森口徒歩8分
吉良上野介ゆかりの場所
吉良上野介墓所・華蔵寺(けぞうじ)(愛知県西尾市)
愛知県西尾市の華蔵寺には吉良上野介の墓所があります。
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元禄十四年(1701年)3月14日におこった、
赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)による、
吉良上野介(きらこうずけのすけ)への江戸城内殿中刃傷事件から、
翌年の12月14日の吉良邸討ち入りまでの事件のことをいいます。
歌舞伎の演目や時代劇の『忠臣蔵』としても有名です。