吉良上野介ゆかりのお寺:華蔵寺(けぞうじ)
元禄十五年(1702年)12月14日、
吉良上野介は赤穂義士四十七士に討たれました。
世間では悪役の印象が強い吉良公のお墓は、
愛知県西尾市の華蔵寺にあります。
『赤馬の吉良公』の銅像
華蔵寺(けぞうじ):愛知県西尾市
寺標と山門
由緒
吉良上野介義央の曽祖父である吉良義定が旗本となり、
吉良家を再興した際に、父親の義安を弔うために、
慶長五年(1600年)に建立したものです。
吉良家墓所
地元では「黄金堤」という堤防を作るなど、
領民をいたわる名君として、
世間とは逆の評価になっています。
吉良公のお墓は静かな中に、ひっそりと佇んでいました。
吉良上野介墓
周囲の空地ではサッカーで遊ぶ、
子どもたちの声が聞こえ、
のどかな場所でした。
吉良公の善政の賜物かもしれませんね。
吉良上野介公を慕う人々
村上鬼城の句
尾崎士郎「吉良の男」
華蔵寺のご朱印
寺院情報
- 住所:愛知県 西尾市吉良町岡山山王山59
- TEL:0563-35-0935
忠臣蔵:四十七士墓所:泉岳寺(せんがくじ)
泉岳寺を訪問した日は、
ちょうど12月14日の義士祭の日でした。
歴史
慶長十七年(1612年)に徳川家康は、今川義元の菩提を弔うために、
門庵宗関和尚を迎えて江戸城の近く、外桜田に開山されました。
宗関和尚は今川義元の孫と言われる方で、
家康に度々登城を請われ、法問を聴取されたと言われています。
寛永十八年(1641年)の大火で伽藍が焼失し、
江戸幕府三代将軍の徳川家光の命により、
現在の高輪の地に移されました。
赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、四十七士の墓所となりました。
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになってからは参拝者が増えたといわれています。
先の大戦で山門や講堂以外が焼失しましたが、
本堂は昭和二十八年(1953年)に再建されました。
大石内蔵助像
大正十年に完成したものです。
大石内蔵助が元禄羽織を身に着け、連判状を手に、
東の空(江戸)をじっと睨んでいる姿です。
赤穂浪士のお墓への道は大行列でした。
義士祭の売店で色紙を購入しました
「吾唯だ足るを知る」京都の龍安寺のつくばいとして有名です。
あら楽しおもひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし
大石内蔵助辞世の句
天野屋利兵衛浮図碑
天野屋利兵衛とは、
『忠臣蔵』の物語において、
赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援した「義商」として有名です。
こちらの碑は明治二年(1869年)に供養墓として建てられたものです。
泉岳寺のご朱印
平成二十六年拝受:ご朱印
平成二十六年十二月十四日拝受:ご朱印
寺院情報
- 住所:〒108-0074 東京都港区高輪2-11-1
- アクセス:都営浅草線泉岳寺駅徒歩1分
- HP:http://www.sengakuji.or.jp/
本所松坂町にある吉良邸跡
吉良公みしるし洗い井戸
吉良公像
吉良邸裏門跡
泉岳寺と同様、こちらも露店などが並び、
吉良公にお参りをする多くの人で賑わっていました。
浅野内匠頭切腹の地
敗者と勝者、加害者と被害者という評価は、
見る人によって分かれているものなので、
一概に決めつけることはできないようですね。
ご覧頂きありがとうございます。
江戸城松の廊下での刃傷事件の後、
浅野内匠頭は芝愛宕下の陸奥一関藩主の田村建顕の屋敷に預けられました。
浅野内匠頭はその日の内に切腹を申し付けられました。
享年三十五でした。田村家の屋敷跡には碑が立っています。