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鎌倉幕府有力御家人・和田義盛ゆかりの地:和田塚(わだづか)
江ノ島電鉄の和田塚駅の近くには『和田塚』と呼ばれる、
鎌倉幕府有力御家人の和田義盛ゆかりの地があります。
和田義盛
『和田義盛の乱』への布石:『泉親衡の乱』
建暦三年(1213年)に、
鎌倉幕府第二代執権の北条義時の排除を目論む泉親衡(いずみちかひら)の謀反が露見し、
和田義盛の息子・義直と義重、甥の胤長(たねなが)が捕縛されました。
関与した武士は130余人にのぼり、
その中に和田義直・和田義重・和田胤長の名がありました。
息子二人は赦免されましたが、胤長は首謀者格と同等の為、流罪となり、
屋敷も没収されました。
義盛は胤長の赦免の陳情を行うも、鎌倉幕府三代将軍の源実朝には会うことすらできず、
一族の眼前で、後ろ手に縛られた胤長が奉行に引き渡されるという屈辱に遭いました。
乱を起こす背景
北条義時は没収した和田胤長の屋敷を、
被官(家来)の金窪行親(かなくぼゆきちか)と安東忠家(あんどうただいえ)に与えましたが、
これは和田義盛にとって大きな屈辱となりました。
源実朝より屋敷を下げ渡されていたにも関わらず、北条義時により強引に接収されました。
和田合戦
建暦三年(1213年)五月二日に和田義盛は挙兵しましたが、一族共々敗死しました。
義盛は享年六十七でした。
片瀬川の岸辺には一族二百三十四の首が晒されたといわれています。
和田塚
和田塚のある場所は古墳時代の墳墓であったといわれています。
大正時代末の開墾などで多くの塚が壊されましたが、
和田塚はかろうじて残りました。
和田義盛一族の墓
和田一族敗死の屍を埋葬した塚として伝承されています。
大震災供養塔
ネコが気持ちよさそうに眠ってました・・・。
境内にある供養塔
戦没者の慰霊塔や『南無妙法蓮華経』と書かれた碑があります。
和田塚情報
- 住所:神奈川県鎌倉市由比ガ浜3-4
- アクセス:江ノ島電鉄和田塚駅徒歩2分
ご覧頂きましてありがとうございます。
久安三年(1147年)に三浦義明の子である杉本義宗の子として生まれました。
源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の初代侍所別当になりました。
『比企能員の乱』や『畠山重忠の乱』では北条方につきましたが、
『和田義盛の乱(和田合戦)』を起こし、討死しました。