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深川の禅寺:陽岳寺(ようがくじ)

東京メトロ東西線・都営大江戸線門前仲町駅から約5分程歩いた深川一丁目交差点のそばに、
陽岳寺はあります。
向井忠勝(むかいただかつ)
由緒
寛永十四年(1637年)に向井忠勝の開基で創建されました。
大正十二年の関東大震災により、多くの寺宝や建物が失われました。
現在の本堂で祀られている御本尊は、京都妙心寺の塔頭実相院にあったものとされます。

本堂

参道にあるお墓

本堂前の参道には、伏見義民の墓と英信勝の墓、観嵩月の墓があります。
伏見義民の墓

伏見義民とは、江戸時代の天明の飢饉(1783年~87年)の頃、
山城国伏見奉行の小堀政方の悪政に苦しんだ住民の中で、
文殊久助、丸屋九兵衛、及び麹屋伝兵衛らは幕府に直訴を願い出て、
ひそかに江戸に入りました。

伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺されましたが、久助と九兵衛は直訴に成功し、
小堀は罷免されました。久助と九兵衛は天明八年(1788年)に獄死しました。
三名が直訴をうかがっている間に庇護された縁から、陽岳寺に葬られました。
英(はなぶさ)信勝の墓

英信勝は英一蝶の子で、父の一蝶が元禄十一年(1698年)に三宅島に流され、
宝永六年(1709年)に許されて江戸に帰り、深川に住んだが、
信勝も父に従って江戸に出て絵画に専念しました。

信勝は元文二年(1737年)に四十七歳で亡くなりました。
観嵩月(かんすうげつ)の墓

江戸中期の画家である観嵩月は、英一蝶の門人である高嵩谷の弟子となり、
幾多の名作を残しています。天保元年(1830年)に七十二歳で亡くなりました。

陽岳寺のご朱印
令和七年拝受:ご朱印

寺院情報
- 住所:東京都江東区深川2-16-27
- アクセス:東京メトロ東西線・都営大江戸線門前仲町駅徒歩約5分
- HP:https://www.yougakuji.org/
陽岳寺周辺
採茶庵跡

仙台堀川沿いの海辺橋のそばにある菜茶庵(さいちゃあん)跡があります。
江戸時代中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。

杉風は松尾芭蕉の門人でもあり、蕉門十哲(しょうもんじってつ)に数えられ、
芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。

松尾芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、
しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだ後、
舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へ旅立っていきました。
海辺橋(仙台堀川)・深川と水

深川は海面の埋め立てによる造成地であるために井戸水の水質が悪く、
隅田川が障壁となって神田・玉川両上水の利用が出来ませんでした。
そのため飲料水は水船に頼ざらるを得ませんでした。

深川に上水道が完成したのは明治後半です。それまでは神田・玉川両上水の余り水を、
銭瓶橋の吐水口で水船に積み込んで各地で陸揚げし、
「水屋」「水売」と呼ばれる人々が棒手振りで飲料水を売り歩きました。
(海辺橋の北岸は江戸時代から「水場」と呼ばれ、水船から飲料水が陸揚げされました)
曲亭馬琴誕生の地

現在の江東区深川ふれあいセンターは、かつて曲亭馬琴誕生の地でした。

曲亭馬琴は江戸時代後期を代表する戯作者で、『南総里見八犬伝』の作者としても有名です。
明和四年(1767年)に旗本の松平信成の用人を勤める下級武士の五男として生まれました。

寛政二年(1790年)に浮世絵師の山東京伝に入門しました。
嘉永元年(1848年)に亡くなりました。享年八十一でした。
文京区の深光寺にお墓がありました。
ご覧頂きましてありがとうございます。
天正十年(1582年)に徳川水軍の将で、
御船手奉行であった向井正綱の子として生まれました。
大阪冬の陣では、九鬼守隆、千賀信親、小浜光隆らとともに水軍の将として出陣し、
野田・福島の戦いでは、大野治胤らの豊臣水軍と小競り合いを繰り返し、
大阪湾の制海権を押さえる活躍を見せました。
寛永九年(1632年)には江戸幕府の御座船「安宅丸」を建造しています。
寛永十八年(1641年)に亡くなりました。享年六十でした。