鎌倉十三佛霊場第七番札所・鎌倉二十四地蔵尊霊場第十五番札所:海蔵寺(かいぞうじ)
鎌倉三十三観音霊場
専用の御朱印帳はありませんので、第一番札所の杉本寺で無地のご朱印帳を購入し、
鎌倉三十三観音霊場専用としました。
古都鎌倉十三佛霊場
十三仏を参拝すれば、亡き人の追善になり、
また追善を行った功徳により、
自らの死後十三王の審判から救済されるという十三仏信仰が盛んになり、
日本全国に霊場があり、多くの人が巡拝しています。
古都鎌倉十三佛霊場:御朱印帳
鎌倉二十四地蔵尊霊場
明治の廃仏毀釈などで失われる地蔵尊を憂い、
明治三十四年(1901年)より各所を捜索し、
大正六年(1917年)に成立したといわれています。
地蔵菩薩はお釈迦様が入滅後、弥勒菩薩が如来として姿を現すまでの無仏の間、
六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)すべての世界で、
衆生を救済するとされます。
鎌倉二十四地蔵霊場には専用の御朱印帳はありませんでしたので、
寺院用の御朱印帳に頂きました。
由緒
建長五年(1253年)に鎌倉幕府第六代将軍の宗尊親王(むねたかしんのう)の命により、
藤原仲能(ふじわらのなかよし)が創建しましたが、鎌倉幕府滅亡時に焼失しました。
藤原仲能は鎌倉幕府有力御家人の大江広元の妹婿・藤原仲教(ふじわらのなかのり)の子で、
鎌倉幕府評定衆となり、宗尊親王が征夷大将軍になるとその後見役を務めました。
その後応永元年(1394年)に鎌倉公方の足利氏満の命で、
扇谷上杉家の当主である上杉氏定の開基で、
源翁禅師(心昭空外)を開山として再興されました。
山門
大部分の材は江戸時代のものだそうです。
山門からの境内
本堂
本堂には十一面観音像が安置されています。
大正十二年の関東大震災で倒壊した後、大正十四年に再建されました。
額は延宝九年(1681年)に霊芝による筆です。
境内
静かで落ち着いた境内でした。
下の写真は令和四年十一月三日の参拝時です。
薬師堂
薬師堂は安永六年(1777年)か安永7年(1778年)に浄智寺から移築したものだそうです。
本尊の薬師如来坐像の胎内には、開山の心昭空外が、
赤児の泣き声を頼りに土中から掘り出したと伝わる仏面が収められています。
その伝説から『啼薬師(なきやくし)』『児護薬師(こもりやくし)』と呼ばれています。
庫裡(くり)
江戸時代の天明五年(1785年)の建立です。
通用門
山門の脇に通用門もあります。
鎌倉十井:底脱の井(そこぬけのい)
鎌倉幕府の有力御家人である安達泰盛の娘・千代能が水を汲みに来た時、
水桶の底がすっぽり抜けたため、
『千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば 月もやどらず』とうたったことから、
『底脱の井』と呼ばれています。
心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという歌です。
境内から十六の井までの道のり
十六の井は境内に案内の矢印があります。
先に庫裡で拝観料百円を払います。
岩のトンネルをくぐります。
住宅の前に看板があります。
十六の井
十六の丸穴があり水が湧き出ています。
『観音菩薩像』と『弘法大師像』が祀られているそうです。
清水が汚れるので、お賽銭は投げないようにという注意書きがあります。
岩船地蔵堂:源頼朝の娘・大姫ゆかりの地
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の娘・大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられています。
源頼朝の娘で、源義仲の嫡男・義高と婚約し、
仲睦まじく鎌倉で暮らしていました。義高11歳、大姫6歳の時でした。
その後頼朝による義仲追討の際に、人質であった義高は、
頼朝が放った刺客により討ち取られてしまいました。
その後大姫は憔悴し、病がちとなり、やがて亡くなりました。
享年二十でした。
守本尊は石造地蔵尊で、『岩船地蔵』の名の由来となります。
元禄三年(1691年)に堂が再建された時、
新たに木造地蔵尊を造立したといわれています。
現在の堂は最近になって新たに造られたそうです。
住所は『神奈川県鎌倉市扇ガ谷3-3-21』となります。
海蔵寺のご朱印
鎌倉三十三観音霊場第二十六番札所:ご朱印
鎌倉十三佛霊場第七番札所:ご朱印
鎌倉二十四地蔵尊霊場第十五番札所:ご朱印
寺院情報
- 住所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-18-8
- TEL:0467-22-3175
- アクセス:JR鎌倉駅徒歩約17分
『十六の井』を拝観する際は拝観料が百円となります。
境内は無料で拝観できます。
海蔵寺周辺
住宅街に祀られている『猿田彦大神』
海蔵寺へ向かう住宅地の中に『やぐら』があり、
『猿田彦大神』が祀られていました。
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大正から昭和初期に設定されました。
江戸時代に成立した『鎌倉郡三十三箇所』を元にしたといわれています。