【歴史的建造物】茨城県水戸市:水戸藩藩校:弘道館

日本最大規模の藩校:弘道館(こうどうかん)

由緒

弘道館水戸藩第九代藩主徳川斉昭が設立した日本最大規模藩校です。
儒学だけでなく、医学兵学武芸など実用的な科目も備えた、
総合大学といえるものでした。

入学年齢十五歳で、卒業はなく学問と武芸両方が重視されました。
明治五年(1872年)学制の発布により閉鎖され、県庁舎などに使用されました。

昭和三十九年(1964年)国指定重要文化財になりました。

徳川斉昭像

弘道館から大手橋に至る道にある徳川斉昭像です。

徳川斉昭(とくがわなりあき)

徳川斉昭

寛政十二年(1800年)に生まれ文政十二年(1829年)水戸藩九代藩主となりました。
七男には江戸幕府十五代将軍徳川慶喜がいます。
弘道館を設立し広く人材を登用しました。
ペリー来航に際し、幕政参与として、攘夷論を主張しましたが、
安政の大獄水戸永蟄居となり、万延元年(1860年)六十一歳亡くなりました。

国指定重要文化財:正門

弘道館正門

天保十二年(1841年)創建時建てられました。

藩主の来館諸儀式を行う時にのみ開門されるそうです。
最近では皇族の方来館される時に開門されたそうです。

正門柱に残る弾痕(だんこん)

明治元年(1868年)水戸藩内抗争最大の激戦であった、
弘道館の戦い弾痕が残っていました。

通用門

正門右側にある通常の出入口です。

正庁玄関(せいちょうげんかん)

広い式台が設けられた格式の高い構え玄関です。

正庁では藩主臨席のもとで行われる文武の大試験諸儀式が行われていました。

徳川斉昭自筆の『弘道館』扁額

徳川斉昭自筆『弘道館』扁額が掲げられています。

徳川斉昭公と七郎麻呂公(慶喜公)像

正庁玄関には徳川斉昭幼い頃徳川慶喜がありました。

諸侯会所

諸侯会所来訪者控えの間です。

掛け軸にある『尊攘』の字は、安政三年(1856年)徳川斉昭の命で、
水戸藩医能書家として知られる松延年(まつのべねん)が書いたものです。

国指定重要文化財:至善堂(しぜんどう)

正庁

『至善堂』の名称は徳川斉昭命名しました。
藩主の休息所諸公子の勉学所でもあり、徳川慶喜幼少期はここで学びました。

通路

藩校時代に学生などが歩いた道路です。通路の先の洋風の建物は、
水戸市水道低区配水塔』です。

土塁

弘道館建設の際、徳川斉昭水戸城三の丸改修を行い、土塁造成しました。

文館跡(ぶんかんあと)

今は梅林となっていますが、かつては学問を学ぶ文館がありました。
明治元年(1868年)弘道館の戦い焼失しました。

孔子廟

孔子廟通常非公開です。儒学の祖である孔子祀るために建てられました。
安政四年(1857年)孔子神位安置されました。
昭和二十年(1945年)八月空襲戟門(げきもん)左右の土塀を残して焼失しましたが、
昭和四十五年復元されました。

門前のカイノキ孔子の墓所に植えられたことに由来する学問の聖木です。

北柵御門(きたさくごもん)

弘道館北側の門にあたります。北と南の門は、
教職と役人だけ通行を許され学生通用門から出入りしていました。

向かって左側土塁藩校当時からの貴重な遺構だそうです。
令和元年十二月復元されました。

武館跡

現在の三の丸小学校はかつて武館がありました。
武館明治元年弘道館の戦い焼失しました。

三の丸小学校の門水戸城冠木門(かぶきもん)として利用されています。

八卦堂(はっけどう)

建学精神を刻む弘道館記碑を収めています。
八卦堂昭和二十年(1945年)空襲全焼し、昭和二十八年復元されました。

弘道館記碑(絵葉書)

頂いた絵葉書建学精神を刻んだ弘道館記碑がありました。

弘道館記天保八年(1837年)藤田東湖によって草案が作られた後、
多くの学者によって内容の検討が繰り返され、
天保九年三月徳川斉昭の名で公表されました。

要石歌碑(かなめいしかひ)

徳川斉昭自筆和歌
『行く末も踏みなたがへそ蜻島(あきつしま)大和の道ぞ要(かなめ)なりける』
が刻まれています。神道を尊び、道徳を行く末まで伝えることが教育の要である
という意味です。

八卦堂要石歌碑の近くには弘道館鹿島神社があります。

弘道館情報

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