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土肥一族菩提寺:城願寺(じょうがんじ)
JR湯河原駅から徒歩5分の場所に、
鎌倉幕府有力御家人の土肥実平一族の菩提寺である城願寺があります。
湯河原駅前には手湯がありました。
湯河原駅には『狸が見つけた、湯』という狸の像がありました。
JR湯河原駅前:土肥氏館跡碑
JR湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったといわれています。
JR湯河原駅前:土肥実平公並夫人像
源頼朝挙兵から八百年を迎え、土肥会創設五十周年を記念して、
土肥実平公並夫人像が建立されました。
鎌倉幕府有力御家人・土肥実平(どいさねひら)
由緒
約九百年前に相模土肥郷の豪族の土肥次郎實平が、萬年の世までも家運が栄えるように、
『萬年山』と号し、持仏堂を整えたことから、土肥一族の菩提寺としての歴史が始まりました。
南北朝時代に土肥実平の末裔の土肥兵衛入道が、
清拙正澄(大鑑禅師)の弟子の禅僧、雲林清深を開山として再興しました。
戦国時代に早川村海蔵寺の三世、大州育守が再興し、曹洞宗に改宗しました。
城願寺参道
寺標と参道
参道は木立に囲まれた六十七段の石段です。
山門
阿吽の仁王像が守護しています。
国指定天然記念物:城願寺のビャクシン
土肥実平の手植と伝えられています。幹のねじれが特徴的です。
高さ二十メートルで樹齢推定八百年です。
本堂
昭和三十六年に茅葺きの屋根が銅板に吹き替えられました。
七騎堂
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、
土肥実平の手引きで岩村の海岸から小船に乗って房州に落ち延びました。
この時同乗した頼朝以下、土肥実平・安達藤九郎・田代冠者・土屋三郎・岡崎四郎
新開荒次郎の木像が安置されています。
昭和四十九年に土肥会によって、七騎落七武者の像が刻まれ、
城願寺に七騎堂を建立し、安置されました。
謡曲『七騎落』と城願寺
伝実平腰掛け石
文殊堂
文殊菩薩・天神様・地蔵菩薩の三神仏が祀られています。
昭和五十二年に改修されました。
明治五年の学制発布とともに、文殊堂を仮校舎として学習の産声を挙げました。
土肥一族の墓所
文殊堂の奥に土肥一族の墓所があります。
六十六基の墓石があり、嘉元二年(1304年)七月の銘のある五層の鎌倉様式の宝篋印塔や、
塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型がそろっています。
伊能忠敬測量隊 土肥氏墓に参拝
文化十二年(1816年)12月19日に、日本全国を測量していた伊能忠敬は、
土肥実平の事績を聞いて感動し、翌日測量終了後に参拝しました。
城願寺からの眺め
城願寺からは真鶴の岬を眺めることができます。
城願寺のご朱印
城願寺:ご朱印
寺院情報
- 住所:神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252
- アクセス:JR湯河原駅徒歩8分
- HP:https://jyouganji.jp/
ご覧頂きましてありがとうございます。
桓武平氏中村流の中村宗平の次男です。
源頼朝の平家打倒の挙兵に嫡男(遠平)とともに中村党を率いて参じました。
石橋山の戦いで敗れ、頼朝らがわずか7・8騎で逃亡した際も、実平が加わっていました。
その後富士川の戦い、宇治川の戦い、一の谷の戦いにも従軍し、
壇ノ浦の戦いの後に、長門国・周防国の惣追捕使として、
長府(現在の山口県)に居城を構えました。文治五年(1189年)に奥州合戦に参戦、
建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の随兵七人のに選ばれました。
建久二年(1191年)に厩の上棟奉行をしている記述(吾妻鏡)を最後に、
史料から姿を消しました。