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曽我兄弟の仇討ち:曽我氏一族郎党の供養御堂:曽我氏館跡・大光院・お花畑と呼ばれる地・物見塚古墳・五郎の沓石
曽我兄弟の仇討ち
曽我氏館跡
曽我兄弟の養父である曽我太郎祐信(すけのぶ)の屋敷跡といわれています。
平成元年の発掘調査では、館の遺構・遺物はまだ確認されていないようです。
曽我氏は平安時代から戦国時代に渡って、この地に拠点を置いたと考えられます。
曽我一族郎党の供養御堂
曽我氏館跡の石碑のそばに、曽我一族郎党の供養御堂がありました。
曽我氏は、曽我兄弟の義父・太郎祐信以来、十四代甚五郎信正まで繫栄しましたが、
永禄二年(1559年)に北条氏に叛いた為、氏康に攻められ、6月16日に城に火を放ち、
城主の信正とともに360余人が自決したと伝えられています。
平成五年六月、曽我兄弟の仇討八百年記念を機に、曽我御堂供養の会有志により、
観世音菩薩を祀り、曽我氏一族供養の為の御堂を建立することになりました。
物見塚古墳
曽我一族郎党の供養御堂のそばに、物見塚古墳がありました。
平成元年八月に発掘調査されました。古墳の石室の側壁や天井石は消失していましたが、
玄室部分は小さな川原石が敷き詰められ、
ここから鉄鏃(てつぞく)や金環などが出土しました。
調査の結果、この古墳は、
古墳時代後期(七世紀)の墳丘(ふんきゅう)をもつ円墳であったと推定されます。
お花畑と呼ばれる地
曽我氏館跡の周辺は古くから「お花畑」と呼ばれてきました。
「お花畑」は永らく村人の立ち入りがはばかられ、
一説には曽我兄弟の塚ともいわれています。
昭和三年にこの地から火葬骨の入った骨壺が発掘され、鑑定の結果、
若者の遺骨であると判断されました。
昭和三十七年に骨壺は城前寺の『伝曽我兄弟の墓』に納められました
五郎の沓石
宗我神社から城前寺に向かう道沿いに、
『五郎の沓石(くついし)』と呼ばれる史跡があります。
あるとき曽我五郎が足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えていないか心配になり、
試しにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、
その足形が石の真ん中辺りに残っています。
以前は足を病んだ人々が、祈願して治ったお礼に、草履や草鞋などを奉納していたそうです。
大光院(だいこういん)
大光院の本尊不動明王は、曽我兄弟の養父・曽我太郎祐信の守り本尊で、
曽我兄弟も信仰していました。
文明十八年(1486年)に祐信の十一代目曽我祐高の末子氏重が出家し創建しました。
はじめ本山修験で、小田原城下の玉滝坊に属していましたが、
明治初頭に天台宗園城寺派に変わりました。
石塔の『神変大菩薩』は、役行者のことであり、
山岳修験につながる寺であることが知られます。明治三十二年の記録があります。
史跡情報
- 住所:神奈川県小田原市曽我谷津
- アクセス:JR御殿場線下曽我駅徒歩約11分(曽我氏館跡)
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建久四年(1193年)5月28日に、源頼朝が行った富士の巻狩りの際、
曽我十郎祐成(そがすけなり)と曽我五郎時致(そがときむね)の兄弟が、
父親の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を富士野で討った事件です。
『赤穂浪士の討ち入り』・『伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻)』と並んで、
日本三大仇討ちの一つです。
兄・十郎祐成が二十二歳、弟・五郎時致が二十歳でした。
十郎は仁田忠常と対峙し討たれ、五郎は捕縛され、源頼朝により処刑されました。
その後、能や歌舞伎など「曽我物」が多く作られました。