Contents
- 1 身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)
- 1.0.1 由緒
- 1.0.2 総門
- 1.0.3 三門
- 1.0.4 三門から参道
- 1.0.5 本田日生(ほんだにっしょう)上人像
- 1.0.6 立教開宗七百五十年・報恩塔
- 1.0.7 宮沢賢治句碑
- 1.0.8 菩提梯(ぼだいてい)
- 1.0.9 男坂・女坂
- 1.0.10 南部實長(さねなが)公銅像
- 1.0.11 境内案内図
- 1.0.12 甘露門(かんろもん)
- 1.0.13 五重塔
- 1.0.14 本堂
- 1.0.15 祖師堂
- 1.0.16 拝殿(御真骨堂前)
- 1.0.17 仏殿・納牌堂
- 1.0.18 朝のお勤め時の仏殿
- 1.0.19 仏殿納牌堂 獅子口瓦
- 1.0.20 大鐘(おおがね)
- 1.0.21 時鐘(ときのかね)
- 1.0.22 法喜堂(ほうきどう)
- 1.0.23 報恩閣
- 1.0.24 開基堂
- 1.0.25 ロープウェイ久遠寺駅
- 1.0.26 寺院のお言葉
- 2 身延山久遠寺のご朱印
- 3 寺院情報
身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)
身延山久遠寺の御廟所と奥之院も訪問しています。
由緒
文永十一年(1274年)に甲斐国波木井(はきい)郷の地頭である南部実長(波木井実長)が、
佐渡の流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮聖人を招き、
鷹取山のふもとの西谷の地に草庵を構えました。
弘安四年(1281年)に本格的な堂宇を建築し、『身延山妙法華院久遠寺』と命名されました。
日蓮聖人は、弘安五年(1282年)に病身の療養のため、
常陸の温泉と小湊の両親の墓参に向かう為、
身延山を下りましたが、途中武蔵国池上(本行寺)で生涯を終え、遺言の通り、
遺骨は身延山に祀られました。
文明七年(1475年)に日朝上人によって現在地へ移転されました。
後に甲斐国守護の武田氏の庇護を受け、江戸時代には徳川家の帰依により発展しました。
総門
久遠寺入口交差点に総門があります。寛文五年(1665年)に、
三河国刈谷城主の三浦志摩守明敬(あきたか)の母・寿応院殿(じゅおういんでん)によって
建立されました。
日潮上人の時に改修され、日潮上人筆の「開会関(かいえかん)」の大扁額が掲げられました。
開会関とは、妙法五字の尊い教えですべての人々の心を開き、平等に救い、
仏と同じ寂光土(じゃっこうど)に入ることができる関門である、という意味です。
三門
三門は寛永十九年(1642年)に日暹(にっせん)上人の時、伏見宮邦房親王の第八王子、
尊賀院日廷(そんがいんにってい)上人が普請奉行として建築されましたが、
慶応元年(1865年)に焼失し、明治四十年(1907年)に日良上人の代に、
全国寺院僧信徒の協力を得て再建されました。
仁王尊は横浜市金沢区六浦の上行寺より、
六浦平次郎入道妙法禅門が背負ってここまで運び寄進したという伝説があります。
六浦平次郎は、中山法華経寺の日祐上人の弟子となり、日荷(にっか)と名を改めました。
『身延山』の扁額は日慈上人の筆です。
ゲタが奉納されていました。
三門には「力しゃもじ」がありました。
「悪の心」や「邪心な心」を召し取る(飯取る)という意味があるそうです。
三門から参道
参道の先には階段が見えます。
本田日生(ほんだにっしょう)上人像
三門を潜ると脇には本田日生(ほんだにっしょう)上人像がありました。
本田日生は近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残しました。
立教開宗七百五十年・報恩塔
「一天四海皆帰妙法」と書かれていました。
宮沢賢治句碑
菩提梯(ぼだいてい)
寛永九年(1632年)に佐渡の住人の仁蔵(にぞう)の発願によって完成しました。
三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段は、南無妙法蓮華経になぞらえて、
七区画に別れています。菩提梯(ぼだいてい)とは覚りにいたる梯(きざはし)のことで、
この石段を登り切れば、涅槃の本堂に至ることが出来ることから、
覚りの悦びが生ずることを意味しています。
菩提梯のそばには男坂・女坂があり、ゆるやかに登ることができます。
階段のそばには「波木井殿御書」の石碑が建っていました。
乃木大将の詩碑もありました。
男坂・女坂
男坂は本堂前に、女坂は甘露門下に出ることができます。
南部實長(さねなが)公銅像
南部(波木井)實長は日蓮聖人を招き、聖人が在山の九年間一族をあげて給仕しました。
身延山を中心に十三里四方を日蓮聖人に寄付し、永仁五年(1297年)に亡くなりました。
享年七十六でした。
境内案内図
甘露門(かんろもん)
女坂を登った先に甘露門があります。甘露門下駐車場のそばになります。
日奠(にちでん)上人の代に建立されたものを、明治元年(1868年)に再建されました。
法華経に「能く甘露の門を開いて広く一切を度す」とも、
「大慈悲を以って広く甘露の門を開く」などとあり、
この門を入って法華経の法益を得せしむるの意味で名付けられました。
五重塔
元和五年(1619年)に加賀藩主前田利常の母・寿福院の寄進によって創建されました。
その後文政十二年(1829年)に焼失し、後に再建されましたが、
明治八年(1875年)に全山を巻き込む大火により焼失しました。
日光上人の発願により、日総上人のときに130年ぶりに復元され、
平成21年5月13日より五日間に亘り落慶式が奉行されました。
高さが三十九メートルあります。
本堂
明治八年(1875年)の大火の後、昭和六十年五月に入仏落慶式が行われました。
内外装は木造仕上げです。
本堂前の回向柱は、令和五年5月17日の日蓮大聖人御入山750年を祝ったものです。
紅白の「善の綱」は、本堂御宝前の日蓮大聖人の右手に繋がっているそうです。
祖師堂
日蓮聖人の神霊を祀る堂閣です。江戸時代に廃寺となった感応寺のお堂を、
明治十四年に移築・再建されました。
彫刻が見事です。
拝殿(御真骨堂前)
拝殿の奥に土蔵造り八角堂があります。明治十四年(1881年)の日鑑上人の代に建立された、
日蓮聖人の御舎利を奉安する御真骨堂(ごしんこつどう)です。
仏殿・納牌堂
昭和六年(1931年)の日布上人の代に竣工しました。
全国信徒の御納骨・御納牌・追善法要が毎日行われています。
朝のお勤め時の仏殿
5時30分の朝のお勤めに参列するため境内にいると、
本堂に向かうお坊さんを見ることができました。ちょうど仏殿の廊下を歩いていました。
仏殿納牌堂 獅子口瓦
仏殿前にある獅子口瓦は、仏殿納牌堂の大棟西側に備えられていた鬼瓦で、
昭和六年(1931年)に仏殿納牌堂が新たに建立されてから、
平成二十四年(2012年)に屋根瓦を銅板に葺き替えるまでの約八十年間、
仏殿納牌堂の屋根にありました。
大鐘(おおがね)
大鐘は寛永元年(1624年)の日乾上人の代に鋳造されました。
初め修行僧の道順(どうじゅん)が発願しましたが果たせず、それを哀れんだ、
徳川家康の側室養珠院(ようじゅいん)(お万の方)が自らの浄資を寄進して、成就しました。
鐘楼は明治十五年(1883年)に建立されました。
時鐘(ときのかね)
明治十年(1877年)に建立されましたが、昭和二十七年(1952年)に焼失し、
永田雅一氏(大映社長)が再建しました。
梵鐘は四国松山城主久松家の祖である定頼の正室養仙院殿(ようせんいんでん)の寄進で、
延宝八年(1680年)に鋳造されました。日脱上人の鐘銘があります。
時鐘は甘露門のそばにあります。
法喜堂(ほうきどう)
法喜堂は、寺務所・職員寮・学生寮・台所等があり、庫裡(くり)といわれるところです。
慶長十三年(1608年)の日賢上人の時に、豊臣秀吉の姉瑞竜院殿(ずいりゅういんでん)が、
わが子である関白豊臣秀次の菩提の為、建立寄進されましたが、
明治八年(1875年)の大火で焼失しました。
明治十六年(1883年)の日鑑上人のときに再建されました。
報恩閣
ご朱印は報恩閣で頂きました。
開基堂
文明四年(1472年)に日徳上人のときに建立されました。
開基の南部(波木井)實長が祀られています。
ロープウェイ久遠寺駅
身延山久遠寺奥之院は、身延山山頂(標高1153メートル)にあります。
ロープウェイで向かうことができます。
寺院のお言葉
日勇上人のお言葉です。
身延山久遠寺のご朱印
平成二十四年拝受:ご朱印
令和四年拝受:ご朱印
ご朱印と一緒に日蓮大聖人の御遺訓を頂きました。
朝勤の散華(さんげ)
朝のお勤め(朝勤)に参列した際に散華(さんげ)を頂きました。
寺院情報
- 住所:山梨県南巨摩郡身延町身延3567
- アクセス:JR身延駅下車身延山行バス終点より徒歩約18分・中部横断自動車道身延山IC
- HP:https://www.kuonji.jp/
身延山久遠寺周辺
JR下部温泉駅
JR身延線の下部温泉駅です。
下部ホテル
下部温泉は武田信玄の隠し湯といわれています。
下部ホテルの敷地内には高浜虚子句碑がありました。
法玉稲荷と書かれた稲荷社もありました。
身延町ブッポウソウ繫殖地案内
身延山はブッポウソウの著名な渡来繁殖地です。
漢字では仏教で重んじる三宝「仏」「法」「僧」と書きます。
身延の六老杉
ご覧頂きましてありがとうございます。