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難攻不落の城:小田原城(おだわらじょう)
小田原駅の小田原提灯
小田原駅の改札には小田原名物である巨大な小田原提灯がぶら下がっていました。
小田原駅から見える小田原城
小田原駅のショッピングモール、ミナカ小田原に写る小田原城です。
小田原駅西口:北条早雲像
小田原駅西口に北条早雲像があります。高さは五.七メートルあるそうです。
天守閣
天守閣外観
御城印は天守閣1階の入場券売場で販売されていました。
天守閣由緒
江戸時代の城絵図によると、初代天守は慶長年間(1596年~1615年)に描かれた望楼型天守で、
二代目天守は寛永十年(1633年)の寛永地震後に復興された層塔型天守、
三代目天守は元禄十六年(1703年)の元禄地震後の宝永三年(1706年)に復興されました、
層塔型天守と考えられています。
三代目天守は明治三年(1870年)の解体まで存続していました。
現在の天守閣は昭和三十五年(1950年)に鉄筋コンクリートで復興されました。
復興前には天守台に観覧車が設置されたことがあるそうです。
天守閣最上階:摩利支天(まりしてん)
天守閣最上階には、武士の守り本尊として信仰された摩利支天像が安置されていました。
大久保忠朝が貞享三年(1686年)に佐倉藩(千葉県佐倉市)より小田原藩に復帰した際、
天守に祀ったとされています。
元禄十六年(1703年)の地震でも焼失を免れたことで、更に尊崇を集めました。
明治三年(1870年)の天守解体時に永久寺(現・小田原市城山)に移されましたが、
昭和三十五年(1960年)に天守閣が復興された際に返還されました。
江戸時代の天守には摩利支天を含む天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。
摩利支天以外は小田原市城山にある永久寺に安置されているそうです。
摩利支天が収められていた天守型厨子も安置されていました。
天守閣最上階の木造再建
摩利支天安置空間の再現には、かつての小田原藩有林など小田原産材が使われました。
平成二十八年(2016年)にかつての小田原城天守最上階の姿がよみがえりました。
天守閣からの眺め
伊豆半島方面
三浦半島方面
真鶴(まなづる)方面
御幸の浜(みゆきのはま)方面
石垣山一夜城方面
『石垣山一夜城』は豊臣秀吉による小田原攻めの際に秀吉が作った城となります。
馬屋曲輪(うまやくるわ)
馬屋曲輪
馬屋曲輪はL字型の独立した曲輪で、周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、
土塁の上へと登る雁木(がんぎ:階段)は二重櫓両側と南側土塁の位置にありました。
三の丸より東側は『馬出門』、南側は『南門』を経て、
『御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ)』から二の丸表玄関である、
『銅門(あかがねもん)』へ至る重要な位置にあります。
馬屋曲輪には今は観光案内所があります。
大腰掛跡(おおこしかけあと)
大腰掛とは登城する人の待機所や番所として用いられた建物で、
小田原城の大腰掛は徳川将軍家が来た時に使われる特別なものでした。
元禄十六年(1703年)の元禄地震によって倒壊・焼失し、以後再建されませんでした。
雁木(がんぎ)
雁木は土塁の上に登る為の階段です。箱根山の溶結凝灰岩(風祭石)で造られており、
他にはあまり例がない斜めに階段が設置されていたところが特徴的だそうです。
馬出門桝形
馬出門桝形は、馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)の二つの門と土塀で囲まれています。
三の丸から二の丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門です。
大手筋は正規の登城ルートになります。
現在の馬出門は平成二十一年(2009年)に復元されました。
高さ約六.三メートル、幅約四.七メートルの規模になっています。
馬屋曲輪二重櫓(うまやくるわにじゅうやぐら)
馬屋曲輪(うまやくるわ)は寛永十年(1633年)に、馬をつなぐ『馬屋』が設置され、
寛永二十年(1643年)には南東隅に二階建の二重櫓が建てられました。
この櫓は元禄十六年(1703年)の元禄地震で倒壊・焼失し、その後再建されましたが、
明治時代に取り壊されました。
銅門(あかがねもん)
住吉橋
住吉橋を渡ると銅門があります。
銅門は馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。
住吉橋とつながっている内仕切門をくぐり桝形を西に曲がると、
銅門渡櫓門となります。
住吉堀(すみよしぼり)
住吉堀は銅門と馬屋曲輪・御茶壺曲輪の間を仕切る堀で、
嘉永九年(1632年)以降稲葉氏による近世化工事で完成しました。
大正十二年(1923年)の関東大震災で石垣が崩落し、
その後埋め立てられ、小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。
住吉堀の石垣と堀の復元工事は、
昭和六十三年(1988年)から発掘調査と並行して行われました。
平成七年(1995年)までの六年間で、銅門櫓台石垣を含めた石垣が完成しました。
銅門
銅門には渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾なされていたことから、
この名で呼ばれています。
銅門は明治五年(1872年)に解体されましたが、
平成五年~七年(1993年~95年)にかけて桝形や櫓台石垣が、
平成八年~九年(1996年~97年)にかけて渡櫓門や土塀が伝統的な工法で復元されました。
二の丸の銅門広場から見た銅門です。
銅門内部の特別公開
毎週土日と祝日には銅門内部が特別公開されています。
銅門土塀模型
銅門広場には銅門の土塀模型が展示されています。
何重にも渡って塗られているのがわかります。
銅門礎石
銅門広場には銅門礎石と伝わる石があります。箱根外輪山の安山岩製です。
手前の石が約1.6トンで、奥の石は約1.8トンもあるそうです。
御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ)
御茶壺曲輪
御茶壺曲輪は三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪となります。
元禄期(1688年~1704年)には徳川将軍家に宇治のお茶を献上する『御茶壺道中』の際に、
往路で空の茶壷を納める『御茶壺蔵』が設けられていたことから、
御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされています。
(復路はお茶が湿気ないように、河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったそうです)
御茶壺橋
正式には小峯橋といいます。
南曲輪(みなみくるわ)
南曲輪
南曲輪には現在小田原市郷土文化館が建っています。
堀にはハスが育っています。
堀にあるハスは、昭和五十四年(1979年)に大賀ハスが株分けされ、
繁殖させたものだそうです。
御感の藤(ぎょかんのふじ)
この藤は、二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、
明治十六年に市内唐人町の西村氏が買い受けて育てられたそうです。
その後大正十一年に西村家からこの地に移植されたそうです。
樹齢は約二百年と推定されます。
大正天皇が皇太子の時、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、
召馬が藤棚の下に駆け入った為、大正天皇の肩に花が散りかかってしまいました。
大正天皇が『見事な花に心なきことよ』と感嘆したことから、
『御感の藤』と呼ばれるようになったそうです。
早川石丁場群の切石
小田原市郷土文化館のそばにあります。
箱根外輪山の早川に面した山腹一帯には、
江戸時代初期の寛永年間頃の江戸城修築に使用された、
石垣用の『石丁場』が広く分布しており、『早川石丁場群』と呼ばれています。
小田原橋親柱
小田原市郷土文化館のそばにあります。
小田原橋は昭和四年(1929年)に東京都中央区築地に架設された、
コンクリート製のアーチ橋です。
江戸時代から昭和四十一年まで『南小田原町』と呼ばれる町がありました。
平成二十五年に小田原橋が撤去されたことから、
かつて江戸城の築城や街づくりに小田原市の先人が深く関わっていたことを偲び、
橋の親柱を譲り受け、移設したそうです。
二の丸
学橋(がくばし)
二の丸に渡る橋は赤い色の学橋といいます。
学橋の先には『二の丸隅櫓』と『馬出門』が見えます。
二の丸東掘
先の赤い橋が学橋となります。
二の丸東堀の幅は約四十メートルあり、
現在よりさらに北に約六十メートル先まで続いていたそうです。
二の丸御屋形跡
二の丸にはかつて『二の丸御屋形』がありました。
明治三十四年(1901年)には御屋形跡に皇族の御用邸が設置されました。
他の城では藩主の居館は本丸御殿ですが、小田原城では将軍専用の宿泊施設であった為、
『二の丸御屋形』が藩主の居館や政庁の役割を持っていました。
現在の小田原城歴史見聞館(NINJA館)は、
昭和四年(1929年)に小田原第二尋常小学校の用地となった際の講堂にあたります。
小田原御用邸は大正十二年(1923年)の関東大震災により全壊し、
昭和五年(1930年)に廃止されました。
二の丸隅櫓(すみやぐら)
二の丸隅櫓は延宝元年(1673年)か翌年に土蔵として建設されましたが、
元禄十六年(1703年)の地震により倒壊し、平櫓として再建されました。
その後関東大震災で倒壊し、後に再建されました。
現在の櫓は江戸時代のものより一回り小さいものだそうです。
二の丸南東の隅に位置し、三の丸の大手門(現在は大手門跡)を入ると、
正面に隅櫓が立ちはだかり、馬出門を見下ろす位置にあります。
本丸
本丸中央にはかつて本丸御殿があり、徳川将軍家の宿所としての役割がありました。
本丸御殿は寛永十年(1632年)の寛永小田原大地震で倒壊した為、
翌年上洛する江戸幕府三代将軍の徳川家光の宿所として再建されましたが、
元禄十六年(1703年)の地震により倒壊・焼失してからは、
再建されることはありませんでした。
常盤木橋
二の丸から常盤木門に渡る常盤木橋があります。
橋の下には本丸東堀があります。
本丸東堀
植木と盛土により堀の形が表現されていました。
発掘調査の結果、幅二十メートル以上の規模をもつ水堀で、
現在よりも五メートル以上深さがあったようです。
本丸東堀から見た、常盤木橋と常盤木門の眺めです。
常盤木橋から常盤木門への階段となります。
関東大震災時に常盤木橋は土台の石垣ごと失われており、
現在の橋は二メートル低い位置に再現されたものだそうです。
常盤木門(ときわぎもん)
常盤木門は徳川将軍家の御殿である本丸御殿を守る本丸正門です。
『常盤木』は戦国時代から本丸に存在した七本の松に由来しています。
小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄するようにと願いが込められているといわれています。
明治三年(1870年)に解体されましたが、
昭和四十六年(1971年)に渡櫓門と南多聞櫓の部分が再建されました。
本丸側から見た常盤木門となります。
本丸東堀から見た常盤木門になります。
イヌマキ
小田原市指定天然記念物で小田原市最大のイヌマキです。
滑り落ちた本丸の石垣
南曲輪の辺りには寛永十年(1633年)に築かれ、
関東大震災で滑り落ちた本丸の石垣があります。
看板のある場所は堀幅約十六.三メートルで深さ約四.五メートルの本丸堀がありました。
南曲輪と本丸は約十四メートルの高低差があります。
本丸の石垣は法面(のりめん:土居)の上の部分のみに石垣を積み上げた、
『鉢巻石垣』という構造でした。
御用米曲輪(ごようまいくるわ)
御用米曲輪
本丸の北側にある御用米曲輪は幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれた、
大変重要な場所でした。
外周を土塁と堀で囲われており、曲輪への出入りは二の丸から相生橋を渡るか、
本丸側から鉄門坂(くろがねもんざか)を下って入るしかなく、
守りが厳重であることが分かります。
御用米曲輪にはかつて野球場があったようです。
御用米曲輪の南西側からは、戦国時代の庭園の一部が発見されました。
色の異なる切石をモザイク模様のように配し、一角には巨石が立てられていたようです。
小田原駅からお城通りを通って入ると、御用米曲輪があります。
小峯曲輪
小峯曲輪北堀
報徳二宮神社の境内には、北条氏によって造成された古い曲輪があります。
堀の幅は二十一メートル、深さは今は五メートル余りですが、
実際の堀底は更に二・三メートル深くなるそうです。
左には報徳二宮神社の社殿があります。
堀底には堀障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたそうです。
小田原城周辺
三の丸元蔵跡
江戸時代前期に、小田原城外の北側に新たな米蔵が建設され、『新藏』と呼ばれました。
以前からあった三の丸の米蔵を『元蔵』と呼んで区別したそうです。
箱根口門跡
現在の三の丸小学校にあります。石垣の一部と土塁が残されていました。
日向屋敷
小田原城主の大久保忠隣(おおくぼただちか)が改易され、
夫人の日向御前が閉居した屋敷跡があったといわれています。
幸田門跡(こうだもん)
お堀端通りに幸田門(こうだもん)跡がありました。
三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつだそうです。
上杉謙信や武田信玄は、幸田門から小田原城を攻めたそうです。
小田原用水
小田原用水は小田原北条氏の時代に、城下の飲料水の為に作られた上水道設備です。
小田原城のお堀に現在も流れ込んでいるそうです。
小田原市内電車(報徳広場)
国道一号線の箱根口交差点に報徳広場があり、小田原市内電車が展示されていました。
小田原市内電車は明治三十三年(1900年)に国府津~湯本で十二.九㎞の軌道線で、
日本で四番目に開業しました。
昭和十年(1935年)には、
小田原~箱根板橋間の二.四㎞の国道一号線を走る町内電車となりましたが、
昭和三十一年(1956年)に廃止されました。
展示車両は平成三十一年(2019年)まで長崎で現役車両として運行されていたそうです。
小田原駅東口のトザンイースト前には『旧市内電車のりば』の案内板がありました。
御幸の浜(みゆきのはま)
明治六年の夏に、明治天皇と皇后がお揃いで箱根宮ノ下に避暑に向かう際、
小田原に立ち寄り、清水本陣に宿泊されました。
八月四日に浜で漁夫の地引網をご覧になられたことから、
『御幸の浜(みゆきのはま)』と呼ばれるようになりました。
早川口遺構
国道135号線沿いに『早川口遺構』の入口があります。
早川口は小田原北条氏時代には小田原城総構の虎口(お城の入口)であったそうです。
数少ない戦国時代小田原城の土塁のひとつになります。
早川口遺構は住宅街の中にありました。
小田原城の御城印
小田原城御城印
小田原城限定御城印
摩利支天:御城印
小田原城情報
- 住所:神奈川県小田原市城内3-22
- TEL:0465-23-1373
- アクセス:JR小田原駅徒歩10分
- HP:https://odawaracastle.com/
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