しとどの窟(いわや)
源頼朝(みなもとのよりとも)
しとどの窟(いわや)
波の浸食でできた海食洞(かいしょくどう)は、『しとどの窟(いわや)』と呼ばれています。
治承四年(1180年)に石橋山の戦いで平家に敗れた源頼朝は、箱根山中や、
湯河原のしとどの窟などを経て、真鶴のしとどの窟に身を隠しました。
頼朝ら一行が窟に逃げ込んだ際に、追っ手が窟を覗くと、
「シトト」といわれる鳥(ホオジロの一種)が急に飛び出してきたので、
人影がないものとして追っ手が立ち去ったことから、この名が付いたといわれています。
頼朝ら七名は岩海岸(源頼朝船出の浜)から安房国(源頼朝上陸地)に逃れました。
弁財天
しとどの窟のそばには弁財天が祀られています。目の前には真鶴港がありました。
品川台場礎石之碑
しとどの窟の前には、品川台場の遺跡がありました。
品川台場が埋め立てられ消滅する際、礎石が移されました。
礎石の大石が真鶴産出の名石であったことが、礎石の一部を移した理由だそうです。
しとどの窟(真鶴)情報
- 住所:神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1042-4
- アクセス:JR真鶴駅徒歩約18分
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清和源氏の嫡流である河内源氏の源義朝の三男として生まれました。
義朝が平治の乱で敗れると伊豆に流されましたが、
北条政子との婚姻を期に、平家打倒に挙兵しました。
その後鎌倉幕府初代将軍となりました。
これにより東国に独立した武家政権が開かれました。
建久九年(1198年)に相模川の橋供養の帰りに体調不良からの落馬が原因で、
五十二歳で亡くなりました。