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武田二十四将・土屋右衛門昌続邸内:武田信玄公墓所(たけだしんげんこうぼしょ)
武田氏三代の居館であった武田神社・武田氏館跡から徒歩約12分の場所に、
武田信玄公の墓所があります。
由緒
武田信玄は、天正元年(1573年)四月十二日に信州伊那駒場で五十三歳の生涯を閉じました。
信玄の遺言の通り、岩窪の地にある武田二十四将の一人の土屋右衛門昌次(昌続)の邸内で、
三年間遺骸を密かにしました。
三年後にで荼毘に附し、
天正四年(1576年)四月十六日に恵林寺で葬礼を行い、埋葬されました。
岩窪の墓所は土屋氏の邸宅で、魔縁塚と呼ばれ、里人は近づかなかったいわれています。
江戸時代の安永八年(1779年)に甲府代官の中井清太夫が発掘して、石棺を見つけました。
石棺には『法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨』とあったので、
元のように埋め、幕府に届けて、信玄公の墓所と定めました。
武田家の旧臣有志が大石碑を建て、荘麗な聖域としました。
武田信玄公墓所
屋根付きの参道の先に墓所があります。
信玄公の墓碑陰銘
碑文は武田信玄正室の三条夫人の墓所で甲府五山のひとつ円光院の住職の愚應の書です。
武田信玄公墓所遠景
武田信玄公墓所の周囲は堀や土塁に囲まれていました。
岩窪のヤツブサウメ
武田信玄公墓所の境内には、山梨県指定天然記念物の『岩窪のヤツブサウメ』がありました。
武田信玄武将印
令和六年拝受:武将印
武田信玄の武将印は、甲府駅前の甲府市観光案内所で購入しました。
武田信玄公墓所情報
- 住所:山梨県甲府市岩窪町246
- アクセス:JR甲府駅下車山梨交通バス武田神社行き乗車護国神社入口下車徒歩約10分
武田信玄公墓所周辺
河尻塚(かわじりづか)
河尻塚は、武田信玄公墓所の前にある北部幼児教育センターの駐車場内にあり、
織田信長の家臣である河尻肥前守秀隆の首塚とも屋敷跡ともいわれています。
河尻秀隆は武田氏討伐の軍の軍目付として活躍し、
武田家滅亡後、甲斐と信濃諏訪部の領主となりました。
河尻秀隆は織田信長の権力を利用し、威圧的な政治をおこなったと伝えられ、
本能寺の変で織田信長が自害すると、
反感を抱いていた武田家旧家臣や農民等の一揆の攻撃を受け、
岩窪にて討ち取られたとも自害したともいわれています。享年五十六でした。
埋葬された時にさかさに埋められたことから、『さかさ塚』の異名を持ちます。
秀隆の死によって空白地帯と化した甲斐国は、
北条氏直との争奪戦(天正壬午の乱)を制した徳川家康の領地となりました。
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