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一之宮天満宮:梶原氏一族郎党(七士)の墓:梶原景時館跡
鎌倉幕府有力御家人・梶原景時(かじわらかげとき)
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の梶原景時のポストカードがありました。
一之宮という地名の通り、近くには相模国一の宮の寒川神社があります。
一之宮天満宮:梶原景時館跡
一之宮小入口交差点が目印です。
由緒
梶原景時は一宮を所領としており、この地に館を構えました。
天満宮の位置は館の一角で、
当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
物見の跡の高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
鳥居
社殿
境内
境内には遊具があり、公園として利用されているようです。
角落とし
角落としは、両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落とし入れ、水流の調整をしたり、
堰き止めなどをする装置です。西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けられ、
増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守りました。
神社情報
- 住所:神奈川県高座郡寒川町一之宮8-6-6
- アクセス:JR茅ヶ崎駅下車バス乗車一之宮小学校入口下車徒歩約2分
梶原伝七士の墓
案内看板
梶原伝七士の墓:遠景
梶原伝七士の墓
正治二年(1200年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、
上洛の途中に清見関(きよみがせき:静岡市清水区)で討死しましたので、
一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て、
鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出ましたが許されず、
七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
内堀の名残
後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
箙の梅(えびらのうめ)碑
梶原景時の長男である梶原景季(かげすえ)は弓の達人である傍ら、
和歌の達人でもありました。
生田の森の合戦では箙(えびら:矢を入れて背負う道具)に梅の枝を挿して戦ったといわれ、
歌舞伎や能の題材にもなっています。
平成二十年(2008年)に梶原公顕彰会が創立二十周年を記念して建立しました。
浜降祭駐興記碑
浜降祭は神奈川県の無形民俗文化財に指定されています。
毎年七月の海の日に茅ヶ崎西浜海岸で開催されています。
寒川神社での祭礼と茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮でも同様の祭礼が行われていたので、
後世になって合体し、名称も「浜降祭」となっているようです。
梶原伝七士の墓情報
- 住所:神奈川県高座郡寒川町一之宮8-7-1
- アクセス:JR茅ヶ崎駅下車寒川駅南口行きバス景観寺バス停下車徒歩約7分
薬師堂(西町集会所)
薬師堂(西町集会所)
梶原伝七士の墓に向かう途中にある薬師堂は集会所にもなっているようです。
地蔵尊が安置されていました。
鎌倉幕府有力御家人・梶原景時ゆかりの地
鎌倉をはじめ、梶原景時ゆかりの地の参拝記もあります。
ご覧頂きましてありがとうございます。
梶原氏は坂東平氏の流れを組む鎌倉氏の一族です。
源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時、
最初は同族である大庭景親(おおばかげちか)とともに、
石橋山の戦いで頼朝の軍を打ち破りましたが、
山中に隠れる頼朝らを見逃したという故事があります。
その後頼朝に帰伏し、鎌倉幕府の有力御家人の一人となりましたが、
他の御家人から排除され、一族は滅亡しました(梶原景時の変)