東叡山寛永寺:根本中堂(こんぽんちゅうどう)
由緒
東叡山寛永寺は、江戸城の鬼門を守護する寺院として創建されました。
元和八年(1622年)に江戸幕府二代将軍の徳川秀忠より、
現在の上野公園の場所を天海僧正に与えられました。
元禄十一年(1698年)に建立された当初の根本中堂は、
慶応四年(1868年)の彰義隊との戦争により焼失してしまいました。
現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂(寛永十五年に家光が建立)を、
山内子院の大慈院(現在の寛永寺)に移築し、
焼失を免れた寛永寺の本地堂の用材も加え再建されました。
国指定重要文化財:根本中堂
本尊は薬師三尊像で秘仏となっています。平安時代初期造像された等身大の尊像で、
古くから近江の石津寺に祀られていましたが、根本中堂の建立に当たり、
迎えられたそうです。
令和六年参拝時:根本中堂
令和六年の参拝時には根本中堂の改修工事が行われていました。
工事は令和六年十二月まで行われるようです。
山門
旧本坊表門・根本中堂鬼瓦
この鬼瓦は、現在「黒門」の通称の寛永寺旧本坊表門に据えられていました。
銅鐘(どうしょう)
厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる延宝九年(1681年)に、
霊廟前の鐘楼に奉献されました。
明治維新以降に寛永寺根本中堂の鐘として、当初に移されたと伝えられます。
了翁禅師塔碑(りょうおうぜんじとうひ)
了翁禅師(りょうおうぜんじ)は江戸時代前期の黄檗宗の僧です。
難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行い、
その功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。
慈海僧正(じかいそうじょう)墓
慈海僧正は、学徳をもって知られ、門主・輪王寺宮の名代をつとめる学頭でした。
虫塚は伊勢長島藩主・増山雪斎が写生図の作画に使った虫類の霊をなぐさめるため、
雪斎の遺志により文政四年(1821年)に建てられました。
雪斎は多くの花鳥画を描き、中でも虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』が有名です。
虫塚は当初増山家の菩提寺、寛永寺子院・勧善院内にありましたが、
昭和初期に寛永寺に合併されたため、この場所に移転しました。
尾形乾山(おがたけんざん)墓碑
尾形乾山(おがたけんざん)は琳派の創始者として著名な尾形光琳の弟で、
画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶で有名です。
二つの碑は、昭和七年に足跡が無くなることを惜しむ有志によって復元建立されました。
上野戦争碑記
寺務所と石灯籠
石灯籠には三代将軍徳川家光の法名「大猷院」と書かれており、
享保五年(1720年)に焼失した寛永寺の大猷院霊廟に献納されていたものかと思われます。
上野公園内にある寛永寺の史跡
上野公園内にある根本中堂跡
上野公園内の噴水のある竹の台広場のあたりに、かつて根本中堂がありました。
初代歌川広重東都名所上野東叡山全図
江戸時代の寛永寺は今の上野公園の全域が寺領でした。
歌川広重の錦絵ではかつての広さを知ることができます。
江戸三大名鐘:時の鐘
天明七年(1787年)に谷中感応寺(今の天王寺)で鋳直されたものが現在の鐘です。
現在も朝夕の6時と正午の1日3回撞かれているそうです。
時の鐘の場所は上野精養軒の横にあります。
木に覆われていて一瞬分かりづらいところにあります。
寛永寺根本中堂のご朱印
平成二十一年拝受:寛永寺根本中堂・ご朱印
『瑠璃殿』は根本中堂正面にかかる勅額で、
東山天皇の御宸筆(しんぴつ:天皇の直筆)です。
令和六年拝受:寛永寺根本中堂・ご朱印
寺院情報
- 住所:東京都台東区上野桜木1-14-11
- アクセス:JR鶯谷駅徒歩8分・上野駅徒歩15分
- HP:http://kaneiji.jp/
寛永寺根本中堂周辺の江戸・明治の遺構
国指定重要文化財:旧因州池田屋敷表門
国立博物館の敷地内にある黒塗りの門は、
鳥取藩池田家の門で通称『黒門』と呼ばれています。
門は土日開放されます。
江戸屋敷の表門として、
丸の内にありましたが、昭和二十九年に移築されました。
国際子ども図書館(旧帝国図書館)
明治三十九年に帝国図書館として竣工され、
今は国際子ども図書館の建物となっています。
京成電鉄・博物館動物園駅跡
昭和八年(1933年)の京成本線開通に合わせて、開業しました。
老朽化や乗降客数の減少のため、平成九年(1997年)に営業休止になり、
平成十六年(2004年)に廃止されました。
国指定重要文化財:旧東京音楽学校奏楽堂(そうがくどう)
明治二十三年(1890年)に東京音楽学校(現・東京芸術大学)本館として建設されました。
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『今鳴るは 芝か上野か 浅草か』と江戸時代の川柳にも詠まれるほど、
江戸っ子に親しまれていました。
芝の増上寺や浅草寺とともに、江戸三大名鐘のひとつに数えられています。