武田家三代墓碑:曽我兄弟供養塔:甲斐大泉寺(だいせんじ)
境内は自然豊かで、鳥が池で休んでいました。
武田信虎(たけだのぶとら)
武田信虎公像(境内)
武田信虎公像(甲府駅前北口)
甲府駅前北口には武田信虎公像がありました。
翌年の『甲府開府五百年』に先立って、平成三十年(2018年)に建立されました。
由緒
大永元年(1521年)に武田信虎を開基として建立されました。
第二世吸江英心大和尚は信虎の弟で、武田家の菩提寺です。
武田家滅亡後は、甲府城を築いた浅野家の菩提寺でもあり、
後に城主となった柳沢家の帰依も篤く、
柳沢家菩提寺の永慶寺の仏殿は大泉寺に移築されました(後に焼失しました)
総門
宝永二年(1705年)に柳沢吉保が建立した永慶寺より、
享保九年(1724年)に柳沢氏が大和郡山に転封となった際に移築された門とされます。
永慶寺跡には現在、山梨懸護国神社が建っています。
境内には石碑など遺構が残っています。
中雀門(ちゅうじゃくもん)
本堂
本堂は第二次世界大戦の甲府大空襲で焼失しましたが、昭和四十年に再建されました。
御霊殿
御霊殿には武田家三代(信虎・信玄・勝頼)の木像が安置されています。
中央の五輪塔が武田信虎の墓で、右側が信玄、左側が勝頼だそうです。
曽我兄弟供養塔
武田信玄誕生の瑞夢と大泉寺開山禅師の富士裾野行脚中の体験から、
曽我兄弟の墓を建て供養しました。
鐘楼堂
国指定重要文化財:絹本著色武田信虎像・案内
武田信虎の遺子である逍遥軒信綱が、
天正二年(1574年)に病死した父の姿を描き、大泉寺に納めました。
文化財案内:金銅金具装笈(おい)
笈(おい)は本来修験者(山伏)が使用したものですが、戦国時代には信仰心の厚い武将達が、
日頃信仰する仏像などを入れ、出陣の際に家来に背負わせ、戦場に持ち込んで崇拝しました。
大泉寺にある二個の笈は、武田信虎と信玄父子が使用したと伝えられています。
文化財案内:大泉寺文書
武田信玄(晴信)以下多くの支配者や曹洞宗の高僧の書状は、
重要な資料として保存されています。
甲斐大泉寺のご朱印
令和六年拝受:ご朱印
大泉寺絵葉書
ご朱印を頂いた際、絵葉書も頂きました。
大泉寺絵葉書:絹本著色武田信虎像
大泉寺絵葉書:信虎・信玄の笈と九条袈裟
大泉寺絵葉書:武田三代の御霊屋
御霊屋の中を見ることができます。
寺院情報
- 住所:山梨県甲府市古府中町5015
- アクセス:JR甲府駅下車武田神社行きバス乗車梨大前バス停下車徒歩約12分
甲斐大泉寺周辺
大泉寺参道入口
不動橋のそばに大泉寺入口の寺標がありました。
道祖神(どうそじん)と東組(ひがしぐみ)
大泉寺山門へ向かう途中に岩窪集落の道祖神がありました。
武田氏滅亡後に、古府中村東組と呼ばれる集落がつくられました。
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明応三年(1494年)もしくは明応七年(1498年)に、
甲斐源氏第十七代当主の武田信縄(のぶつな)の嫡男として生まれました。
永正五年(1508年)には分裂していた武田宗家を統一し、
永正十六年(1519年)に甲府に居館である躑躅ヶ崎館の建設に着手し、
城下町を整備し、有力国衆ら家臣を集住させました。
天文十年(1541年)に嫡男の武田信玄(晴信)によって強制隠居させられ、
駿河の今川義元の元に寓居(ぐうきょ)することになりました。
背景には晴信との不和、重臣との不和、
度重なる外征による領民の重い負担などが挙げられます。
天正二年(1574年)に六男の武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、
その地で亡くなりました。享年八十一です。