Contents
大江広元ゆかりの地:三浦一族ゆかりの地:法華堂跡
鎌倉幕府有力御家人・北条義時ゆかりの地:北条義時墓所
源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地として、
新法華堂が建立されました。
平成十七年の発掘調査により、8.4メートル四方の平面正方形の建物跡が確認され、
『吾妻鏡』の記述が裏付けられました。
白旗神社の横の道をしばらく東へ向けて歩くと、案内板と階段があります。
階段を登ると法華堂跡が現れます。
法華堂跡境内
法華堂跡はありますが、北条義時墓所の場所ははっきりわかりませんでした。
『吾妻鏡』では『頼朝の東の山上をもって墳墓となす』と書いてあります。
法華堂跡一帯を義時の墓所と考えればいいのだと思います。
伊豆の国市の北條寺にも北条義時の墓所があります。
三浦一族ゆかりの地
宝治元年(1247年)に起きた北条氏と三浦氏の争いである宝治合戦において、
北条時頼に攻められた三浦泰村以下の一族276人が、
源頼朝の法華堂にこもり自害しました。
このやぐらで自害した三浦氏一族の供養が行われています。
薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡
鎌倉幕府有力御家人:大江広元ゆかりの地:大江広元墓所
法華堂跡から更に階段を登ると、『3つの近世墓』と呼ばれる墓所があります。
急な階段です・・・。
鎌倉幕府の有力御家人である公家出身の大江広元は、初代政所別当として、
鎌倉と京都の貴族の間の交渉で活躍しました。
大江広元の四男が毛利氏の祖にあたる毛利季光(もうりすえみつ)である縁から、
長州藩第十代藩主である毛利斉熙(もうりなりひろ)が、
文政六年(1823年)に墓所を造営しました。
大江広元の顕彰碑もあります。
毛利季光(もうりすえみつ)墓所
毛利季光は大江広元の四男にあたり、承久の乱で武功を挙げました。
しかし宝治合戦において三浦氏についた為、
敗れた三浦一族とともに法華堂で自害しました。
墓は大江広元墓所とともに、文政六年(1823年)に、
長州藩第十代藩主である毛利斉熙(もうりなりひろ)によって墓所が造営されました。
島津忠久墓所
島津忠久は鎌倉幕府の御家人で、島津氏の祖にあたります。
忠久の祖母が源頼朝の乳母であった縁から、頼朝に重用され、
恩賞により南九州島津荘の惣地頭に任ぜられました。
安永八年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪によって墓所が造営されました。
大江広元・毛利季光の墓から右側の島津忠久の墓へは塀があって移動できなかった為、
一度階段を下り、再度右側の階段を登りました・・・。
中々膝や腰にきます・・・。
法華堂跡からの景色
東御門
幕府の東御門のあった場所が近くにあります。
現在の清泉小学校の前に『大蔵幕府跡』の碑があります。
法華堂跡情報
- 住所:神奈川県鎌倉市西御門2-5
- アクセス:JR鎌倉駅徒歩約20分
ご覧頂きましてありがとうございます。
北条時政の次男で、姉の北条政子が源頼朝の妻となったことを契機に、
父や兄・宗時とともに平家打倒に挙兵しました。
頼朝をはじめ、源頼家、源実朝など歴代の幕府将軍を助け、
後に鎌倉幕府二代執権となりました。
政子とともに、源実朝の暗殺や、
後鳥羽上皇による承久の乱の危機を乗り越えましたが、
元仁元年(1224年)に亡くなりました。享年六十二でした。