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信濃善光寺分院:小石川善光寺(ぜんこうじ)
伝通院から慈眼院・澤蔵司稲荷の前を通り、善光寺坂を下ると小石川善光寺があります。
善光寺坂
明治になり善光寺の名をとって、坂の名がつけられました。
由緒
慶長七年(1602年)に伝通院の開山の際、
江戸幕府初代将軍の徳川家康の母である、
於大の方の念持仏を安置する寺院として開山されました。
縁受院(えんじゅいん)という名称でしたが、明治になり伝通院から独立した際、
信濃善光寺の分院となり、明治十七年(1884年)に善光寺と改称されました。
於大(おだい)の方
於大の方は阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊像を念持仏として、
肌身離さず拝んでいたそうです。
山門
本堂
堂宇は空襲の被害を免れ、本堂は明治十五年築(明治三十八年に大改修)だそうです。
善光寺の竹と緑の塀
かつては石塀だったそうですが、老朽化による倒壊の危険性から、
竹と緑の塀に直されたそうです。
寺院掲示板
寺院情報
- 住所:東京都文京区小石川3-17-8
- アクセス:都営三田線・大江戸線春日駅徒歩7分
ご覧頂きましてありがとうございます。
享禄元年(1528年)に三河刈谷城主である水野忠政の娘として生まれました。
天文十年(1541年)に徳川家康の父である岡崎城主の松平広忠と結婚しました。
実家の水野家が松平氏の主君である今川氏と絶縁し、織田方についた為、
広忠により離縁され、阿久比城主の久松俊勝と再婚しました。
今川氏より独立した家康は、俊勝と於大の方の3人の息子を家臣とし、
松平の姓を与え、於大の方を母として迎え入れました。
慶長七年(1602年)に伏見城で亡くなりました。享年七十四でした。