太田道灌(おおたどうかん)の山吹の里伝説と太田道灌ゆかりの寺社のご朱印をまとめてみました。
太田道灌(おおたどうかん)という名は江戸城を築いたことで有名ですが、
関東の寺社仏閣を巡ると、由緒の中に太田道灌という名が良く出て来ます。
太田道灌の『山吹の里伝説』と、
これまでに参拝しました太田道灌ゆかりの寺社をまとめてみました。
太田道灌(おおたどうかん)
道灌の死後、扇谷上杉家は衰退し、戦国時代の荒波に揉まれていきました。
山吹の里伝説
太田道灌 山吹の里伝説
鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、
蓑(みの)を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げました。
“七重八重花は咲けども山吹の 実のひとつだになきぞ悲しき”後拾遺和歌集 兼明親王
「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から、
「山吹」の意(「実の」と「蓑(みの)」をかけ「お貸しできる蓑が無い」ことを詫びた)を
告げられると、和歌の道に精進するようになったといわれています。
JR日暮里駅前:『山吹の花一枝』銅像
荒川区周辺は太田道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた、
高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝えられています。
JR日暮里駅前にある『山吹の花一枝』の銅像です。
JR日暮里駅前:太田道灌:『回天一枝』銅像
JR日暮里駅前に太田道灌の銅像があります。
『回天一枝』という作品名は、作者の橋本活道氏と鈴木俊一元都知事が命名しました。
新宿区山吹町:『山吹の里』の碑
面影橋のたもとにある『ブリリアシティ西早稲田』というマンションの前に、
『山吹の里の碑』があります。住所:東京都豊島区高田1-18-1
この碑は碑面から、
貞享三年(1686年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
マンション建設前の『山吹の里』の碑
マンション建設前には面影橋の橋のそばにありました。
面影橋(おもかげばし)
目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあります。
『姿見の橋』とも呼ばれ、
在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説や、
鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた江戸幕府三代将軍の徳川家光が名付けた、
という説もあります。
面影橋は神田川にかかっており、桜並木の名所でもあります。
近くには都電荒川線の面影橋駅もあります。
豊島区立山吹の里公園
面影橋の『山吹の里』の碑の近くには豊島区立山吹の里公園があります。
『七重八重』の歌碑もありました。
“七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき”という、
兼明親王の詠んだ歌が書かれています。
住所:東京都豊島区高田1ー10−5。最寄駅の都電荒川線早稲田駅まで徒歩4分です。
紅皿の墓:西向天神社別当寺・大聖院(だいしょういん)
大聖院の敷地内には、太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓があります。
これまでに参拝しました太田道灌のゆかりの寺社をまとめてみました
東京都大田区
太田神社(おおたじんじゃ)
太田道灌が江戸城築城の際、神社の地を候補地とし、
遊猟の際に検分した為という説があります。
太田神社のご朱印・御守りは初詣と例大祭の日のみ頂けます。
東京都港区
久國神社(ひさくにじんじゃ)
太田道灌により江戸城の鎮守として溜池に建立されました。
後に『粟田口久國』の刀剣が寄進されました。
飯倉熊野神社(いいくらくまのじんじゃ)
文明年間(1469年~1487年)に太田道灌によって再建されましたが、
戦火により焼失しました。
品川寺(ほんせんじ)
長禄元年(1457年)に太田道灌により伽藍が建立され、大円寺と称しました。
東京都中央区
椙森神社(すぎのもりじんじゃ)
文正元年(1466年)には太田道灌が雨乞いに霊験があったとして、
山城国稲荷山五社大神を勧請して祀ったといわれています。
東京都千代田区
柳森神社(やなぎもりじんじゃ)
長禄二年(1458)に太田道灌が、江戸城の東北方面の鬼門除けとして、
京都の伏見稲荷大社を勧請して創建されました。
東京都中野区
中野沼袋氷川神社(なかのぬまぶくろひかわじんじゃ)
文明九年に太田道灌が戦勝祈願で献植した『道灌杉』が昭和十七年まで残っていましたが、
現在は枯れた根が残っています。
文明九年(1477年)に関東管領側の武将である太田道灌は、
関東公方側の武将である豊嶋泰経と江古田・沼袋の間で戦いました(江古田原・沼袋合戦)
太田道灌はこの戦いに勝利し、豊嶋氏にかわって武蔵野の支配を確立しました。
東京都杉並区
井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)
文明九年に太田道灌が石神井城の豊島氏攻めの際の戦勝祈願に訪れました。
埼玉県川越市
川越八幡宮(かわごえはちまんぐう)
太田道灌は川越城(当時は河越城)を築城した際、分霊を守護神としました。
神奈川県鎌倉市
英勝寺(えいしょうじ)
英勝寺は上杉氏の家宰である太田氏が居を構え、
門前には『太田道灌屋敷跡』の碑もあります。
ご覧頂きましてありがとうございます。
永享四年(1432年)に鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である、
扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれました。
扇谷上杉家を二代に渡って補佐しました。
古河公方との争いでは、房総の千葉氏を抑える為、江戸城を築城し、
城主として主家扇谷上杉家を支え、その活躍により威望も絶大なものになりました。
しかしそんな道灌を主家や家臣が快く思わず、
文明十八年(1486年)に扇谷上杉定正の糟屋館に招かれた道灌は暗殺されました。
死に際に『当方滅亡』と言い残し、
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いと予言しました。享年五十五でした。