千葉県長生郡一宮町:上総国一之宮:玉前神社のご朱印

鎌倉幕府有力御家人・上総広常ゆかりの地:玉前神社(たまさきじんじゃ)

上総一ノ宮駅から玉前神社へ歩く途中に古い社標がありました。

鎌倉幕府有力御家人・上総広常(かずさひろつね)ゆかりの地

上総広常

上総権介平常澄(たいらのつねずみ)八男です。
房総平氏惣領家頭首として、
治承四年(1180年)に平家打倒の兵を挙げた源頼朝挙兵に参戦しました。
千葉常胤とは又従兄弟にあたります。
寿永二年(1183年)謀反の企てがあると頼朝に疑われた広常は、
頼朝の命を受けた梶原景時鎌倉御所内で殺害されました。
(上総広常には謀反の意思は無かったといわれています)

上総広常顕彰碑

上総広常三代に渡り上総国を支配した武将です。
寿永二年(1183年)七月鎧一領石碑に記された書状を添えて、
源頼朝心願東国太平祈願しました。
鎧と書状戦国期の戦乱焼失しました。

源頼朝により謀反の疑念と生来の傲慢さ不興を買い
寿永二年十二月頼朝の命を受けた梶原景時謀殺されました。

2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』上総広常の書状

2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』上総広常の書状

大河ドラマの撮影に使われた書状です。
鎌倉の大河ドラマ館で展示されていました。

由緒

永禄年間(1558年~1570年)戦火社殿古記録焼失したため、
創建年代は不明です。

鎌倉時代には上総国一之宮としての格式を保っており、
北条氏・里見氏天正の変社殿が罹災するも、
天正十年(1582年)里見義頼によって再建されたと伝えられています。

社標と鳥居

まずは朱色の鳥居をくぐり、境内に入ります。

鳥居

朱色の鳥居の先に石造りの鳥居があります。

社殿前の鳥居

社殿前にはもう一つ朱色の鳥居があります。

社殿

社殿江戸時代貞享四年(1687年)造営された珍しい黒漆塗り権現造です。

社殿由緒

御神木

御神木「いす」「なんじゃもんじゃ」とも呼ばれるまんさく科いすの樹です。

さざれ石

子宝子授けいちょう

雄株(おかぶ:右)雌株(めかぶ:左)の間に実生の子どもいちょうが育っています。

五葉松(ごようまつ)

樹齢推定百五十年です。
五葉の松葉と、枝が四方に大きく広がった四方正面の姿うねった形の幹が特徴です。
冬でも青々とした葉をつけることから『不老長寿の象徴』となっています。

御神水

古くから御神水湧き出ていたようです。

獲錨記念碑

明治の末九十九里浜の海に沈んでいて、度々漁網に被害を及ぼしていた錨(いかり)が、
漁師の網に掛かり引き揚げられました。漁師達は神社のお陰と喜び、
網主が東郷平八郎海軍大将篆額(てんがく:石碑の上部に書かれた題字)頂き
そのとともに碑が建てられました。

神楽殿

玉前神社上総総神楽千葉県無形民俗文化財指定されています。

玉前神社槙の群生

九十九里海岸平野気候風土に適しているそうで、
一宮町の特産です。

はだしの道

はだしで三周歩く事で気を満たすことができるそうです。

珠琴泉(しゅきんせん)

水琴窟(すいきんくつ)「玉前神社・珠琴泉」名付けられました。

招魂殿

大正十二年に建立されました。日清・日露戦争以降第二次世界大戦までの、
一宮出身の戦没者がお祀りされています。

末社十二社

一宮町内昔から祀られていた神々が、明治初年政府の命により玉前神社に合祀され、
十二神社として現在に至りました。

平成六年社殿が改修されました。

西南戦争

西南戦争政府軍の一員として参戦した、現在の長生郡十六名戦没兵を顕彰した碑で、
明治十一年に建立されました。

征清紀念碑

明治二十七年に始まった日清戦争戦死した二十二名の戦没者顕彰した碑です。
明治二十八年建立されました。

芭蕉の句碑

元禄元年(1688年)秋冬頃の句で、仁徳天皇聖徳を称えたものです。

力石

横綱太刀山(当時関脇)一行一宮巡業した折八十五貫(約319㎏)と言われるこの石を、
幕内若さくら軽々と持ち上げたと伝えられています。

玉前神社のご朱印

玉前神社:御朱印帳

平成十九年拝受:玉前神社・ご朱印

玉前神社:九月限定・ご朱印

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神社情報

玉前神社周辺

タカラ鮮魚

遅めの昼食は上総一ノ宮駅前の魚料理「タカラ鮮魚」で頂きました。

お刺身定食松を頂きました。新鮮な海の幸は美味でした。

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