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源頼朝の父・源義朝墓:勝長寿院跡(しょうちょうじゅいんあと)
鎌倉幕府初代将軍:源頼朝ゆかりの地
元暦元年(1184年)に鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は、
父である源義朝の菩提を弔う為の寺の建立場所を大御堂ヶ谷の地に定めました。
文治元年(1185年)に後白河法皇に依頼して、源義朝と腹心の鎌田政清の首を探し出し、
勝長寿院の南御堂の地に埋葬しました。
文治元年十月に堂舎が完成し、盛大に落慶供養が行われました。
源頼朝の父:源義朝
平治元年(1160年)の『平治の乱』に敗れ、
敗走中に尾張国野間で同行していた腹心の鎌田政清の舅にあたる、
長田忠致(おさだただむね)の裏切りに遭い、鎌田政清とともに殺害されました。
享年三十八でした。
由緒
鶴岡八幡宮、永福寺(現在は永福寺跡)とともに当時の鎌倉三大寺社の一つでした。
康元元年(1256年)十二月に火災の為伽藍が焼失しましたが、
正嘉二年(1258年)に鎌倉幕府五代執権の北条時頼により再建されました。
その後も永仁三年(1295年)にも火災で焼失し、その度に再建されました。
鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉を治めた足利氏の鎌倉公方により保護されましたが、
初代古河公方の足利成氏が鎌倉を離れ、
有力者の保護を失って以降、十六世紀頃に廃寺となりました。
近くには『文覚上人屋敷跡』があります。
勝長寿院跡碑
現在周囲はほぼ住宅地となっています。勝長寿院跡の碑が建っています。
奥には源義朝と腹心の鎌田政家の墓があります。
源義朝墓
源義朝墓の由来碑もありました。
鎌田政家墓
鎌田政家は母親が義朝の乳母であった為、乳兄弟として義朝に最も信頼されていました。
鎌田政家の舅であった尾張国の長田忠致(おさだただむね)に義朝とともに殺害されました。
勝長寿院跡情報
- 住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下4-6-20
- アクセス:JR鎌倉駅下車京急バス「鎌24」金沢八景駅行き他『岐れ道』バス停下車徒歩5分
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河内源氏の六代目棟梁で、源為義の長男です。
少年時代に関東に下向し、上総氏の保護を受け、『上総御曹司』と呼ばれていました。
その後鎌倉の亀ヶ谷に館を構えました。
三男・源頼朝、六男・源範頼、七男・阿野全成、九男・源義経らの父親になります。