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秦野金剛寺(こんごうじ)
由緒
建保六年(1218年)に鎌倉幕府三代将軍の源実朝は、
鎌倉の勝上巘(しょうじょうけん)にあった源頼朝の念持仏を、
戦乱の多い鎌倉の地から避難させようと考え、
命じられた波多野忠綱は、田原の地にあった寺に安置し、
実朝の法号である金剛寺殿のちなみ、寺の名を金剛寺に改めました。
建保七年(1219年)に源実朝を討ち取った公暁は、
三浦氏の家来である武常晴らによって討ち取られました。
実朝の首は武常晴によってこの地に持ち込まれ、
退耕行勇を導師として、手厚く葬られたと伝えられています。
建長二年(1250年)に波多野忠綱により、源実朝の菩提を弔う為に再興されました。
近くには源実朝公御首塚(みしるしづか)もあります。
鎌倉幕府三代将軍:源実朝(みなもとのさねとも)
山門
本堂
御本尊の『木造阿弥陀三尊立像』は源実朝の念持仏ともいわれています。
阿弥陀堂
井戸
大きな釜からお墓参り用のお水が流れていました。
田原学校跡
金剛寺には明治六年(1873年)に小学校が開校されました。
明治二十五年(1892年)に近くに校舎が新築され、村立田原小学校に改められました。
石像
本堂の前にかわいい石像がありました。
寺院情報
- 住所:神奈川県秦野市東田原1116
- アクセス:小田急秦野駅下車神奈川中央交通バス中庭バス停下車徒歩約1分
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源頼朝の次男として生まれ、鎌倉幕府二代将軍の兄・頼家が追放されると、
十二歳で三代将軍に就きました。
『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』を編纂するなど、
歌人としての才能も発揮しましたが、
建保七年(1219年)十二月、右大臣拝賀のために参詣した鶴岡八幡宮にて、
頼家の次男の公暁(くぎょう・こうぎょう)により殺害されました。
享年二十八でした。